若い身そらで禿頭。(4) update ver.
2014年4月13日
ツツジの枝にくっついているのは、おそらくハラビロカマキリというカマキリの卵でありまして、昨年の初頭にカマキリ姉妹の最期を見届けましたので、気になってしょうがないのであります。二度の積雪の際に、ツツジにはどっさり雪がかぶりましたけれど、こういう形状ですから、問題なく無事に冬を乗り切ったようであります。何度撮影してもピントが合わないのですが、今日はたまたまピンとが合いまして、何の変化もないのに掲載となりました。
まもなくカマキリが生まれてくるでしょう。
地球が誕生して、気の遠くなるような年月でありますが、ある時生命体が生まれたんでありましょう。それは最初からだったかも知れませんが、原始生命体は徐々に地球環境の中で増殖しまして、いろんな適応を見せて、多様な動物・植物になったのだろうなと想像いたします。人間の場合には、祖先を辿って行くと、何人かのおおもとに収斂されて行くというような話を聞いたことがありまして、一個体からの派生とまでは言ってないんですけれども、あなたも私も祖先の祖先の祖先の、そのまたずっと先の祖先は同じ人だったかも知れないということでありますが、人とカマキリがどこかで同じ生命体を先祖として持つなんてこともあり得るんでありましょうか?素人としては、それもあるんだろうなあと思うのであります。
なんとなく、ことの成り行きで『徒然草』の第137段冒頭の一文の解釈にこだわっております。
「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」というのが、それであります。
杓子定規にものを考えるということがありまして、決まりは決まりだから、例外はダメというようなことを世間で言われたりいたします。「規則だからダメ」って言う立場でありますね。これはつまり、規則というような架空のものに責任を負わせるわけでありまして、規則はその場面では固定されておりますから、ダメなものはダメなんですね。ところが、規則にはそれを定めた狙いがありまして、定めた人がここにいたら、規則を変えてしまったりいたします。
このことは、『ハリー・ポッター』のなかで、ホグワーツ魔法魔術学校の校長であるダンブルドアが「それは私が決めた規則じゃがのう」と言うシーンがありまして、この人は権力志向ではありませんから自分勝手なのではなくて、生徒のためというような観点から規則を弾力運用しようとするのであります。世間も同じで、規則を悪用する人間がいれば、悪用した人には厳しく適用して行こうとするのであります。
徒然草の冒頭の場合、第二文に連用中止法が出てきますから、これを第一文にも適用しようとして、しくじっている可能性があるんであります。
「雨にむかひて月を恋ひ、垂れこめて春のゆくへ知らぬも、
なほあはれに情けふかし」
(『徒然草』137段)
とあるからのようです。これだと「恋ひ」と「あはれに」の二箇所が、並列の最初の活用語が連用形という連用中止法の用法になっていることは明白で、解釈も容易でありましょう。「雨に向かっては(見られない)月を慕い、引きこもって簾を垂れては(直接見ない)春の行方を知らないのも、やはりしみじみとし、深く情趣を感じる」となりますが、対句を入れ替えても「~春のゆくへを知らず、~月を恋ふも、なほ情け深く、あはれなり」でありますから、これは自然と言うことなのであります。
雨にむかひて月を恋ふるは、なほあはれなり。
垂れこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれなり。
また、それぞれに情けふかし。
(連用形を解消すると、以上のようになることでしょう。)
ちなみに、この文章のもとの「あはれに」は連用形の副詞的用法と取る方が普通でありまして、単に下に来る「情ふかし」を強めているだけかもしれません。その場合は、訳としては「しみじみ」とか「とても」となりまして、副詞の「いと」や、同じ形容詞の「いみじく」と同じであります。純粋な連用中止法は「恋ひ」のところだけとみなした方がよさそうです。
再び、「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」の考察に戻ります。
じゃあ何に引っかかって、有名な第一文の解釈について、代表的な解釈を否定しようとしているのか、ということですが、二点有ります。一点目は「盛りなり」という形容動詞も結構だが、そもそもそんな品詞は受験用語に過ぎないと言うことであります。それはともかく、名詞の「盛り」という安定感抜群の言葉があるのに、それを形容動詞だ連用形だ中止法だと言うことに対する抵抗感があります。現代語だって「花盛り」と言えば満開のことでありまして、「花は盛りに」と言ったら、別に言葉を補うことなく、「花は満開に」「花は盛りの時に」と解釈出来るでしょう。並列の構文をほぐしてみたなら、これは、こうなります。
「花は盛りにのみ見るものかは」【反語文】
(=花は盛りにだけ見るものか、いやそれだけではない)
「花は盛りにのみ見ず」【否定文】
(=花は盛りにだけ見ない、いついかなる時も見る)
どこも変じゃないんであります。小学館の『日本国語大辞典』(第二版)は、『伊勢物語』17段の例を引いていまして、「年ごろおとづれざりける人の、桜のさかりに見に来たりければ」とありますから、「盛りに見る」というのは古来不変の日本語でありまして、そう取らないほうが異常であります。
次に指摘したい二点目は、連用中止法を受けている「月は隈なき」というものが具体的に何を指しているか、分かっているのかと言うことなのであります。「くまなし」という言葉を語源を考えて「隈」(くもり・くらがり・かげ)がないのあるのと言うのは、形容詞だとか何とか文法的に品詞を分けているからで、古典を普通に読んだら、「月のくまなき」とか「くまなき月」って言ったら、これは望月すなわち満月のことであって、月の表面の状態をここで「隈なき」で形容しているんではないのであります。
だから、冒頭の一節は、「花は満開だけ見るものか、月は満月だけ見るものか、それだけではない」と言っているんであります。桜が満開などと言うのは、ひょっとすると一日、せいぜい二三日くらいの短期限定であります。同じく、望月とか満月なら、たった一日でありまして、これも十三夜から十五夜までと拡大しても三日でありまして、月が曇りない状態、きれいに澄んだ状態であるわけではなくて、たぶん三日月がいくらきれいでも、有明月がきれいでもあまり言わないのではないでしょうか。従来の注釈は、この文章を状況説明風の文に見立てたんですが、実は花や月の観賞に適した極めつきの満開・満月を指しているはずであります。
この兼好の意見を、本居宣長が『玉勝間』でけなしたのも有名なんですが、宣長の曲解のよう。
兼好法師は、『徒然草』の第137段の冒頭で、別に満開の花や、満月のお月様を否定しているんではないと思うんですが、いかがなもんでしょうか。
「盛り」を名詞にとり、「くまなき」を満月を表すイディオムとして理解すると、反語と助詞の「のみ」という限定の言葉を丁寧に汲み取れば、「満開と満月だけ見るものなの?」と問いかけ、それからごく普通に「満開や満月だけ見るわけじゃない」と打ち消しまして、これは要するに「それ以外の時も見るよね」って言っているんですね。
「のみ」の扱いが難しいのは、半分くらい現代語から消えかけているというか、日本語の現場から退場しているからで、「花は盛りにのみ見ず。月はくまなきをのみ見ず」と言い換えれば、これは否定の時に生きてくる微妙な助詞だと分かることでありましょう。要するに「満開や満月を見るばかりが能じゃない」って言っただけなんです。
百歩譲って、「花はさかりなるをのみ見るものかは」が成り立つのかどうか。どうでしょう?
「さかりに」が連用中止法だという主張をされてしまうと、たぶん誰も反論が出来なかったんですね。出来ないと思います。つまり、誰も古代からタイムワープしておりませんし、兼好法師の時代にタイムトラベル出来ませんので、現代には古典文法のネイティブ・スピーカーはいないわけです。だから、文法的に破綻していない主張を、「そんな風には言わないよ」というように完全否定できないのであります。
これが英語だったら、日本の学校教育は現代英語の読み書きを目指しますので、そこにバイリンガルのシカゴ帰りやロンドン帰りの帰国子女が紛れ込んだりすると、すげなく「そんな風に言わないよ」とささやかれて、英語の教師は立場を失うんであります。ところが、古典の場合は古典文法をふりかざされれば、それを誰もやり込められないのであります。鎌倉時代の京都周辺から舞い戻った子女は、残念ながら教室には出現いたしません。だから、連用中止法だと説明されてしまえば、それに抵抗するのは愚か者のすることなんですね。愚か者は、これを書いている私だけであります。
私の参考書じゃありません。我が伴侶である野菊ちゃんの。
いま、手元に筑波大教授だった小西甚一さんの『古文の読解』(旺文社・1962年)という参考書があるんですが、これも連用中止法の例として紹介しているくらいですから、みんな魔術にはまったわけで、この魔法は永遠に解けないかも知れないのであります。
しかし、なるべく直訳したら「花は盛んなのをみるものか、いやそれのみ見るものではない」となるんですが、これだけ有名な、つまり古典の中の古典である『徒然草』の一節がありながら、我々は今「今日、桜並木の盛んなのを電車から見ましたよ」と言えないのはなぜなんでしょう。「盛んな桜を今年も見たよ」ってどうして現代語として通じないんでありましょう。どうして? どうして? でもって、こんなのを見つけたんだが、これは何なの。何なんでしょうか先生? どう思います、先生?
『徒然草』第161段
花の盛りは、冬至より百五十日とも、時正の後、七日とも言へど、立春より七十五日、大様違はず。
安良岡先生にも小西先生にも聞きたいんですけれども、どうしてここが「花の盛りなるは、……」ではないのかぜひうかがいたいものです。どうして? どうして? お弟子さんたちは、聞いてみた人いるんでしょうね。破門になっていたりしたら気の毒であります。逆鱗に触れるってことは、きっとあるでしょうね。
一言言い添えますけれども、準備して調べまくって見つけたんじゃありません。岩波文庫の『徒然草』を普通にめくるとすぐ目に飛び込むんであります。その程度の事なんですが、その程度の事が転がっているんであります。ちゃんと常識を持って研究していたとは言えないでしょうね。
門前の小僧、習わぬ経を読むとは、よく言ったもので、『徒然草』を小松英雄さんのユニークな解説で読んだ経験が生きてきたのかも知れません。たぶん『徒然草抜書』という本になった内容を、直に講義を受けたんでありますね。ここまで書いて、ひょっとするとあの本にはこの内容と同じものがあったかもと思いまして、あったらどうしようと思い始めましたので、あとで本を探してみることにいたします。
まことしやかに自説を述べておいて、他人のふんどしかもしれませんよね。その時はご容赦を。どこにしまってあったかなあ。
学びは若き盛りに、数寄は老いの後にのみするものかは。
いついかなる時もすべきものなり。
学びは若き盛りにのみせず、老いの後にもすべきものなり。
数寄は老いの後にのみせず、若き盛りにもすべきものなり。
(粗忽謹製)
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