若い身そらで禿頭。(2) update ver.

2012年4月12日


自然の営みという物は、移り変わりの激しい物であります。四季折々、刻々と変化をして行きまして、留まる所がないのであります。ある時は、変化が表面的に感じられなくなりまして、停滞していると見えるのですけれども、実は大きな変化が兆しているはずでありまして、桜の咲く十日くらい前の桜の枝は、春など永遠に来ないのではないかというような様子をしておりましたのに、一輪が咲き始めると、次から次とつぼみがふくらみ、それが花弁を開いて、そしてあっという間に散って行っております。


写真は、芝生の上に吹きだまった桜の花びら。


漢詩の世界では、人事と自然を対比しまして、人事は転変を繰り返し、自然は不変の物だということになっておりまして、学校でもそう習ったのであります。人事というのは、中国の場合は王朝の交代でありまして、戦乱の覇者が皇帝となって君臨するんですが、そう何代も続かずにまた別の王朝に取って代わられるのであります。


それに比べて、自然は時が来れば花が咲き鳥が鳴き、山はそびえ川は流れ、草木は芽生えて枯れるのであります。なるほどなるほど、子供心には感服しまして、中国の漢詩は偉いなあ、世の中の道理を詩にして、理性的であるし雄大であるし情感もたっぷりであると思っておりました。


思っておりましたが、私はこのところ、昔習ったこと、自分が賢そうに理解できたと思ったこと、耳に心地よい解釈・注釈・論考・随想と言った物を、疑り始めております。うたぐりはじめてみると、疑わしいことこの上ないのでありまして、やはりこの世は早熟な秀才の作っている物であって、そういう人は従来の説を吸収するにたけてはいるんですが、実は少しも自分で考えない人でありまして、そのことは『百人一首』の解釈を見れば明らかなのであります。


まるで、散り敷いた桜の花びらのようでありまして、これらはもはや役に立たなくなっているのであります。あくまでも、桜のことを言っているに過ぎないと思っていただきたいと思います。


自然こそ、転変を繰り返し留まることがない物でありましょう。漢詩は嘘を詠むものなのであります。


つらつら考えて見ると、どうやら漢詩というのは、人材登用試験である科挙の試験の一つだったようでありまして、それができると進士になることができるものだったのではないでしょうか。


宮崎市定さんの名著であった『科挙』(中公新書、1963年)を読んだのは遠い昔で、記憶も曖昧ですが、科挙を通過した人たちは、要するに詩人なわけでありまして、高級官僚は漢詩がお上手ということだったのであります。永遠なる中国という国土を舞台に据えて、その永遠不変を言祝ぎつつ、そこで交替してきた王朝の転変を嘆いたりすることで、恐らくは天下国家を憂える人物であるかどうかを見極めたのでありましょう。


だから、これは試験対策をしていれば自ずから皇帝や皇帝周辺の人物の嗜好が漏れ聞こえてきて、みんな同じようなテーマを、いかに新鮮に見せるかという技術になるわけでありまして、それがまるで真実を漢詩に作っているという錯覚すら生んだわけであります。と、私は思っているんですが、さてこの素人考えはいかがなものなのでしょう。


ローズマリーにとまるナミアゲハ。蜜を吸うの?


このローズマリーが開花したころまで、キチョウという黄色い蝶々がこのあたりで越冬を試みておりまして、随分心配をしたものであります。実はローズマリーの下にはリュウノヒゲがありまして、そのリュウノヒゲの下で積雪をしのいだようなのです。ところが、そのころから、近所の悪い猫が、地面を歩くのが冷たかったのか、リュウノヒゲの上を伝い歩きしていたようでありまして、その上粗相もずいぶんしていたのであります。


ある日、キチョウの姿が消えましたが、私は猫が悪さをしたと信じておりまして、猫とは和解しておりません。この前は特に顔つきの悪いのがうろついておりましたので、にらみ付け、距離を縮め、追いかけました。猫を飼った経験がありますから、この辺の対応はうまいのであります。ううう、わん、と吠えたような気がします。


庭のツツジが間もなく開花しそうであります。一昨日まで冬だったのに、なんだか妙な具合です。


本日の最低気温が、9・3度くらいでありますから、それは三月いっぱいくらいの日中の最高気温だったのであります。つまり、一日の気温の幅が、この前までとこの二三日とで重ならないわけで、ぽんと違う気候にスライドしたのであります。よって、もう冷房が必要でありまして、だから日本には春とか秋とか言うようなのんきなものは実は無いのでありまして、仮に冷房・暖房をすっかりあきらめると、一年の八割くらい我慢し続ける必要があるわけであります。


四割我慢しない時があるなら、それが春と秋だろうという方は甘いのでありまして、そうではなくて夜寒いか昼暑いか、一日のどこかしらつらい時間帯を抱えていまして、朝から晩まで、宵から夜明けまで、一日中ちっとも暑くも寒くもないという快適な日なんてないんじゃないのと言っているのであります。


赤いツツジが間もなく咲き始めるようです。


もうそんな季節なのであります。毎日毎日写真を撮っていますと、昨日と今日、今日と明日が変わりばえのしない退屈な毎日が結構あるんですが、しかし、一ヶ月前と今とでは、写真に写っているものががらりと変わりまして、庭は違う相貌を見せているのであります。


昨日いなかった蝶々が、今日は目の前をひらひらし、今日咲いていなかったツツジが明日はてらてらと赤い花びらをひろげて見せそうであります。真冬にツツジが狂い咲きしまして、雪をかぶっていたなんてことがありましたが、遠い昔のようであります。震災前の記憶は、もう遠い昔でありまして、更に引っ越す前のことなど思い出せないのであります。忘れようと努めておいて、思い出せないなあと言うのも矛盾でありますが、人はそんなものでありましょう。


「禿頭」の入った過激なタイトルでありますが、私の見解ではありません。ちゃんとした詩であります。乞うご期待。 

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