もぢり百人一首(100) アップデート版

 100 ももひきや 古き軒端に 干しあまる 人目を忍ぶ 翁なりけり


(通釈)ああ、寒い冬だこと。断捨離しようと思っていて、忘れて取っておいたももひきが、こんなに役に立つとは思わなかった。この佐渡の古い住居の軒端に、洗って干すのだけれど物干しざおが足りないね。目立ちたくないなあ。人目を忍ぶ都落ちの私としては。もう年だしなあ。


(語釈)〇ももひき……腰からくるぶしまで、下半身に密着したズボン型の下着。Wikipediaによると、ポルトガルから伝来したもので、江戸時代以降普及したらしい。



(本歌)ももしきや 古き軒端の 忍ぶにも なほ余りある 昔なりけり

    (『続後撰集』巻第十八・雑下 1211番 順徳院御製「題知らず」)


順徳院の歌が『百人一首』のしんがりです。「しんがり」を漢字表記すると「殿」なんですが、今この表記を「しんがり」と読ませるのは無理がありそうですね。この方は、仁治三年(1242)に崩御されたのであります。佐渡院とも言いまして、後鳥羽院が隠岐に流されたように、こちらは佐渡に流されて現地で亡くなられたそうです。実は、藤原定家さんはその前年、仁治二年(1241)に亡くなっておりますが。何の根拠もなく思うのですが、『百人一首』を贈るのにふさわしいのは、この順徳院という『百人一首』の最後を飾る帝王ではないのか、という気がいたします。前にどこかで、左近の桜を藤原定家さんが伐りに行く話がありまして、その時許したのが順徳院でありまして、そういう点では巡り合わせのよい二人でありますから、この方にプレゼントするなら、『百人一首』の構成はふさわしいでありましょう。それ以外にもらって喜ぶ人の顔が浮かばないのであります。いや、顔はもともと浮かばないので、喜ぶ人の名前が浮かばないと言い直しておきたいと思います。『百人一首』をもらって喜ぶのは、順徳院ただお一人のはずであります。

      


どうやら『百人一首』の末尾三首については、その歌人の人名表記が問題のようです。藤原家隆が従二位になったのが、文暦二年(1235)9月10日のことでありまして、これが嘉禎元年と改められます。嘉禎三年(1237)4月9日に家隆さんは従二位のまま亡くなりますけれども、この家隆さんが従二位の間に、『百人一首』が成立したという可能性が指摘されております。それ以前だと、三位でなければならないし、故人であったなら配列がもう少し前でないといけないようなのです。


ただし、そうなると問題なのが、後鳥羽院・順徳院という天皇の諡号でありまして、後鳥羽院と決定したのは仁治三年(1242)、順徳院の方が決定したは建長元年(1249)ですから、このそれぞれの諡号を藤原定家さんは知るよしもないわけです。なぜなら、前にも述べたようにすでに仁治二年(1241)8月20日に亡くなっているわけでありまして、誰かが死後に歌人名表記を二人の上皇に関しては改めたということなのであります。ともかくすっきりしない問題が残ると言うことだけは指摘されております。


だから、『百人一首』は定家が撰んだんじゃないと密かに考える人は多いのでありまして、そうなると百人の顔ぶれがおかしいとか、それぞれの代表作にしては物足りないとか、そういう話になって収拾がつきません。しかしながら、それながら、『百人秀歌』から『百人一首』を作るとして、三人抜いて二人加えたんだけれど、四首落として三首加えるというような操作を、定家以外の誰がするのかという問題があるでしょう。


ももしきや 古き軒端の 忍ぶにも なほ余りある 昔なりけり

    (『百人一首』第100番・順徳院)


「ももしき」というのが、皇居を指すというのが、なかなか難しいのであります。初句の末尾の「や」というのは、「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」などという歌が思う浮かびますが、「や」の前後が緊密に結びついていたりするのであります。「ももしきの古き軒端の忍ぶ」が、「昔」の実景として浮かぶような仕掛けなんですけれども、当然「忍ぶ」が、シダ植物の「シノブ」と、過去を追憶する「忍ぶ」の掛詞となって、歌の主旨は懐旧にかられた述懐ということなのであります。「忍ぶにもなほ余りある昔」というのは、いくら思いを寄せても足りないくらいの感慨深い過去ということで、実は何をそんなに思っているのか、はっきりしないのであります。よって、上の句の表現を生かして、昔の御代、古代の聖主の時代という解釈に至るようです。順徳院の家集によれば、弱冠二十歳の時の作品であると井上宗雄先生が指摘してますが、だとすればこの帝王は帝王教育を受ける中で、中国の下降史観を勉強なさったと言うことで、先人は高くそびえ、後代の者はなかなか及ばないというような発想が表現されていると言うことでしょう。


とりあえず『百人一首』100首全部、それと『百人秀歌』から捨てられた4首、合計104首読みました。


まだまだ言い足りないこともあるのでありますが、とりあえず俳句・川柳にしたものも、下の句を付けまして、それなりに遊んで参りました。和歌だけ取り上げたら、とてもとても続かないはずでありますが、俳句にしてみたり、川柳にしたり、自分の分からないところ、足りないところを、むしろ取り柄にしまして古典中の古典である『百人一首』をいじり回してみたら、案外面白い物であります。最後の順徳院の歌も、これを恋の歌に見なすことは出来るわけでありまして、「忍ぶ」は思いを寄せるでも人目を避けるでも、恋の情調をかもします。二人の昔は、余りあるほど幸福な日々だったねえと、過ぎ去った恋を慈しむんでありますね。それから、「余り」は「軒端」の縁語だよって、角川文庫の谷知子さんが指摘してまして、おそらく「軒端の忍ぶ」は、軒先から余っているように見えますから、これはそういう修辞がちゃんと入っているようです。


さて、『百人一首』を読み通してみての感想は、なるほどなかなかいいという微温的な気分であります。


たぶん、世間の大方の方は、名作しか読んだことが無いのであります。やはりこれは名歌揃いの秀歌撰でありますから、ホテルのバイキングのような物なんであります。どれもおいしいのでありますが、やはり、ローストビーフとカニと、スイーツが人気というような具合でありまして、実は平凡なエビチリも、コンソメスープも普通よりはずっとおいしいのであります。下手な古歌を我慢して読むような経験は、普通はありませんから、結局『百人一首』のなかでの好き嫌い、うまい下手を論じてしまいそうであります。少なくとも、絶対に秀歌とは認められないというような歌はありませんでした。昔、藤原定家さんの若い時の歌を輪読かなんかしましたときには、解釈の途方に暮れるようなおかしな歌ばかりで、何が言いたいのかさっぱり分からないものがたくさんあったのであります。それに比べたら、実に充実しておりまして、たしかにこれらの歌がとりあえず名歌であると言えるでしょう。


百人の ふるき昔の 歌見ても なほ余力ある 我が身なりけり(粗忽)


大手柄と自慢した中で、やっぱり違うかなあと反省しているのは、西行さんの「かこち顔なる我が涙かな」であります。これはやっぱり、昔のままでいいんではないか、と思ったりしているんですが、いやいや待てよ、他にどんな証拠の歌があろうとも、涙が顔を持っているというのは無理ではないか、などと揺れているのであります。ということは、他のは本当に大手柄かも知れませんね。お勉強で困って検索している人がたまにいるんでありますが、今はまだ役に立ちませんよと言いたいのであります。30年、50年したら、あるいは定説になったりすると面白いことでありますね。もちろん、これもあれもすべて妄想であります。松尾芭蕉さんの俳句に導かれて、長い長い旅でありました。以上が2011年のまとめです。


ひさかたの 光も射さぬ 冬の日に 賤心なく 雪の散るらん(粗忽)

ひさかたの ひかりもささぬ ふゆのひに しづごころなく ゆきのちるらん


「静心」というありもしない言葉で『百人一首』の紀友則さんの歌(33番)は解釈されているんですが、「賤心」ではないかと提案しました。それを使って、本歌取りではなくてパロディをしてみました。本日は、日本列島が大雪で、その散る雪を眺めながらの作業でした。日本中、はらりはらりと雪が積もったことでしょう。 

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