もぢり百人一首(97) アップデート版

97 来ぬ人を 待つ塩鮭の 夕餉かな 焼くや浜辺に 焦がさぬように


(通釈)毎日お仕事ご苦労様。今夜のおかずは塩鮭よ。見渡せば花も紅葉もないうらぶれた浦の苫屋の秋の夕暮に、焼き始めるやいなや、けっして焦がさないように火加減をして、まだ来ないあなたのことを今か今かと待っているのよ。ほんとに毎日お仕事ご苦労様。今夜のおかずは塩鮭よ。見渡せば花も紅葉も……。


(語釈)〇塩鮭……「しおざけ」または「しおじゃけ」。荒巻鮭とも言い、内臓を抜いた鮭を塩漬けして保存性を高め、熟成した状態で食用にするもので、かつてはお歳暮としての定番であった。現在でも、夕食や弁当のおかずとしてはポピュラーなものの一つ。近ごろでは、適度に塩抜きをして骨も抜いたレトルトの状態のものもあり、電子レンジで手軽に温めて食べられる。ガスレンジが普及するまでは、塩鮭も含め焼き魚は屋外に出て七輪で焼くことが多かった。


 (本歌)来ぬ人を まつほの浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

    (『新勅撰集』巻第十三・恋三 849番 権中納言定家「建保六年内裏歌合に恋歌」)


『百人秀歌』だと、この歌が最後の100番の歌でありまして、その後に藤原公経さんの歌が来るのであります。もし、『百人秀歌』と『百人一首』がどちらも藤原定家さん自身の自選秀歌撰だとすると、まったく自分の歌を落とす気持ちは無かったと言うことになりますね。『古今集』において紀貫之は、歌が足りなくなると自分で作って「詠み人知らず」として入れてしまったなんて話を聞いたことがあるんですが、その一方で『後撰集』の撰者である梨壺の五人という方々は、自分たちの歌を採用しませんでした。紀貫之は不評を買い、梨壺の五人は敬意を勝ち取ったらしいのであります。そう習ったか、本で読んだだけで検証していないので間違っているかも知れませんが、撰者のあり方としてはどちらもアリでありましょう。


この藤原定家の歌も、『新古今集』の歌ではなくて、『新勅撰集』の巻十三・恋歌三・849番に入っているんであります。『新勅撰集』の撰者は藤原定家さん自身ですから、まあ言ってみれば自讃歌でありまして、たしかに一度見たら忘れられない「もみもみ」した歌であります。「もみもみ」がどういう概念なのかは私にはまったく分からないんですが、ずるい言い方をすると「もみもみ」という擬態語は、この歌のためにあるのではないでしょうか。夕餉(ゆうげ)の時間に来ない人を待つのはつらいかも知れませんね。身もだえしつつ、モミモミと恨みの言葉をつぶやきながら待つのでしょうが、歌もそんな感じで作るんでありますね。「揉む」と言う言葉から来ているはずですから、何となく分かる気もいたします。「もみにもむ」「もみ込む」「もみほぐす」わけで、手塩にかけて丁寧に仕込むということなら、歌の中にいろんな仕掛けがあって、従来の歌を素材にしていても、それとはまったく趣向を変えて味付けをするということかもしれません。掛詞や縁語を駆使し、訳そうにも一筋縄ではゆかないような複雑な歌になっているということなんでしょうか。季節や風景の歌に見せて、実は恋の情趣を色濃く持ちつつ、恋の歌や述懐の歌に見せかけて、季節や風景の歌をこしらえるというようなことなのかと思うんですが、さて辞書には何て書いてあるのでしょう。


〇もみもみ【揉揉】〔歌論用語〕心をつくして深い内容をこめ、表現をこらすこと。「定家は……やさしくもみもみとあるやうに見ゆる姿、まことにありがたく見ゆ」(後鳥羽院御口伝) 『岩波古語辞典補訂版』


そうだろうなという概説的説明ですね。後鳥羽上皇のお言葉の中の「ありがたく」は、「めったにない・ごくごく稀」と言う意味でしょう。他の歌人にはない、唯一無比の表現だと感じていたというのかもしれません。『和歌文学大辞典』を見たら、やはり俊頼の「うかりける」の歌を『後鳥羽院御口伝』の記述に沿って引用し、こういう歌らしいよと紹介しているのであります。   



この歌の問題点は、「待つ」と「松帆の浦」の掛詞の所を、二重のものにして連続して解釈してよいのか、どうかということです。この一首の歌をそのまま頭からしっぽまでそのまま訳して行って、倒置法がないとして解釈する注釈書が多いのですけれども、そうすると「つつ」というのを反復詠嘆のように解するしかなくなるのではなかったか、と思うのですが、そこのところはちょっと待ってくれと言いたいわけです。結論だけ言ってしまうと、この歌は倒置法でありまして、「身もこがれつつ来ぬ人を待つ」で終わると考えると面白いんですね。つまり本当は「松帆の浦の」から歌が始まると言うことではないでしょうか。あるいは、いっそのこと「来ぬ人を待つ松帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身も焦がれつつ来ぬ人を待つ」として、最初と最後が同じフレーズになるといいのだと思います。ちくま文庫の『百人一首』(鈴木日出男さん)はそう言う訳になっていまして、同感と言いますか、それが絶対にいいのだと思います。それから、四句目の「や」は、紫式部(第57番歌)の所でも、また良経(第91番歌)の所でも指摘したのですが、間投助詞だけれども、単に語調を整えるというような生ぬるいものではなくて、これは「~するやいなや」という即時の用法であるはずでしょう。「焼くや(藻塩のごとく)身も焦がれ」ということで、「動詞+や+動詞」という構成を見逃してはなるまいと思うのです。時刻は夕暮れで男の通う時刻ですから、「焼く」は単に藻塩のことだけではなく、他の女の所へ行くのではないかと嫉妬の炎を燃やすことでありますから、この歌のなかで「藻塩の」だけが単純な修辞でありまして、これを「藻塩の(ごとく)」と理解するのがいいでしょう。「焼くと藻塩が焦がれるように、焼くと身もこがれつつ待つ」ということであります。この歌は、繰り返し詠むうちに、螺旋状に繰り返される無限構造でありまして、そのことはもし指摘する人がいないなら大手柄、たぶん鈴木日出男さんは気が付いておられます。

「焼くや焦がれつつ待つ、焼くや焦がれつつ待つ、焼くや……」と言うようなループ構造で、次第にフェイドアウトして行くのがよさそう。なんとなく、来ないままで終わってしまいそうな感じがいたします。

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