もぢり百人秀歌(76) アップデート版
76 咲き初めて 滝にぞ見ゆる 山桜 雲居遙かに 隠岐にいませり
(通釈)咲き始めて見たら、なんとまあ滝のように見える山桜よ。その山桜のような帝王であらせられた後鳥羽院は、雲居遥か、隠岐の国にいらっしゃることだ。さようなら。
(語釈)〇隠岐……現在は島根県に属する日本海の諸島。かつては一国であり、流刑の地でもあった。
(本歌)山桜 咲き初めしより 久方の 雲居に見ゆる 滝の白糸
(『金葉集』巻第一 春 50(45)番 源俊頼朝臣
「宇治前太政大臣家の歌合に桜を詠める」)
『百人秀歌』というのは、どうやら『百人一首』の原形らしいと言うことで結論が出ているものであります。存在する伝本はたった二本ということでありますが、藤原定家の日記である『明月記』と照らし合わせても、どうもこちらが宇都宮頼綱(法名蓮生)から依頼された嵯峨山荘の障子にあしらう色紙形和歌のもとであろうと言われておりまして、それが『百人一首』と似て非なる所があるものですから、非常に面白いのであります。そのなかで、歌人の入れ替えに関しては三人を省き、新たに後鳥羽院と順徳院を加えましたので意図は明瞭であります。加えなければならない二人の席を空けるために、お好みの三首の歌を切り捨てたとも言えましょう。問題は、歌人はそのままに歌の差し替えをしたことです。『百人秀歌』から『百人一首』へと変更を敢行した時の、源俊頼の扱いが焦点なのであります。
簡単に言うと、入れ替える前の「山桜」の歌は、ある人物に対して、藤原定家が「人前で発表する時はこう詠みましょう」と推薦した歌であります。晴れの場に歌を提出するなら、こう詠まなくちゃというような見解でありまして、定家さんの考える晴れの歌の代表と考えるのが、この場合の筋と言うものです。一方、入れ替えたあとの「うかりける」の歌は、ある人物から「定家ってやつはこう言うのが好きなんだぜ」と指摘された歌であります。ということは、妙ちくりんな歌なのに、あの定家という奴はこういうのが好みと言うか、趣味趣向なんだよと指摘しておりまして、現在で言うと「定家は変態なんだよ」と暴いたのであります。つまり、俊頼の二首の歌というのは、どちらもいわく因縁がありまして、それが幕府と朝廷の大物に関わることでありますから、事は重大なのであります。もったいぶらずに言うと、前者は源実朝でありますし、後者は後鳥羽院でありますから、なんとも恐れ入るようなキャスティングでありますね。
それにしても、この「山桜」の歌は、あっけらかんとした比喩・見立ての歌でありまして、山桜が滝のように空にあるよと言っているだけなのであります。豪快と言えば豪快、イマジネーションによる桜の歌であります。
山桜が咲き始めましたら、空に白糸のような滝が出現した、というような歌なのであります。そんなところに滝はなかったはずなんだが、一体あれはなんなのだろう?というような歌でありまして、そりゃあもちろん、山の彼方の山桜が咲き誇る姿が、滝のように見えるわけなのであります。一幅の掛け軸のような、ちょっとした由緒あるお寺のふすま絵のようなものでありまして、「ひさかたの」という枕詞も趣を添えまして、なかなか良い歌なのであることは誰もが認めることでしょう。
山桜 咲きそめしより ひさかたの 雲居に見ゆる 滝の白糸
実は私が「山桜」の歌も作ってみました、「ほれこのように」と言っても誰も疑わないのではないでしょうか。そう言うからには、実は私の作品ではなくて、これは源俊頼が寛治八年(1094)に詠んだ歌なのであります。安定感抜群のいかにもな歌でありまして、通常はこちらが源俊頼の代表作なんでありますね。この歌人は、きちんとした和歌も詠めたんでありますが、この前から紹介している「うかりける」のような変な歌を流行らせた人なのであります。例えると、ピカソみたいなものでありましょう。普通に写実的に描けるのに、ある時から抽象画になっちゃったというようなことであります。俊頼はピカソだったのか。
『金葉集』といいますのは、勅撰和歌集で言うと五番目に位置するものなんでありますが、作れと命令しましたのは白河院でありまして、撰者は実はこの源俊頼自身ということなのです。白河院というのは、もちろん白河天皇が引退して上皇になってからの呼び名でありますけれども、よぼよぼのお爺さんであるとか、隠居して盆栽いじりをしている好々爺を思い浮かべてはいけないのであります。この方の父帝である後三条天皇という方が、改革を目指した政治好みの天皇でありまして、その後を受けてそれまでの摂関政治体制を変革してしまったわけです。白河院は息子の堀河天皇を即位させまして、上皇として政治に介入したんですね。これが、院政と呼ばれる政治体制として固まりまして、強力なリーダーシップを帝王が発揮するという、何とも勇ましいものができあがったわけです。そうなると、どうなるのかということですが、たとえば矢継ぎ早に勅撰和歌集を作れ作れと命じることになります。白河院は、四番目の『後拾遺集』(撰者は藤原通俊)を作らせたんでありますが、これを時の歌壇の大御所である源経信という歌人が激烈に非難しまして、非難はしたんですが、その激しい批判精神が時代のぴりぴりした空気にはぴったりはまりましておそらく大評判となったんですね。この源経信というのが、実は源俊頼朝臣のお父さんであります。
源経信ジュニアが次なる勅撰和歌集の撰者に選ばれて、お父さんの努力は最高の形で報われた、というように見えたのです。
めでたし、めでたしかと思いきや、それがそうは問屋が卸さないのであります。源俊頼は自分好みの新風の歌をかき集めて新しい勅撰集を提出するんですが、たぶんお父さんの例の批判の件がありますから、一応白河院の意向と言うことにはなっているんですけれども、この内容ではまかり成らんということで、却下されてしまいます。「駄目だ駄目だ、作り直せ」って言うんですね。今で言うなら、もはやイジメでありまして、うるさいオヤジの息子を餌食にしようというような、壮絶な宮廷社会の報復であります。仕方ないんで、ジュニアは素直だから受け容れまして、伝統的な昔の歌を今度はかき集めたようでありまして、それなら大丈夫かというと、これまた駄目なのであります。そりゃあそうでしょう。イジメるのが目的なんだから、一度ごめんなさいをしたって、許すはずがない。紆余曲折の果てにできあがったのが、『金葉集』なのであります。三度目の正直というわけですね。源俊頼と言う人は、実はお父さんとは性格が似ていなかったようでありまして、穏やかで温厚な人柄だったみたいなのです。歌は新しいんですが、とてもいい人だったみたいで、だから白河院とは衝突しないのであります。この辺の親子関係が、ちょうど藤原俊成・定家親子と逆なのであります。つまり俊成は温厚なのでありますけれども、そのジュニアの定家が、いつか紹介したように気むずかし屋の天才肌なのとは、ちょうど逆なんであります。しかし、二代目ジュニアという共通点は、おそらく定家さんの俊頼びいきには影響がはなはだあったはずなんです。
「山桜」の歌は、歌合わせに提出したもので、じつは判者はお父さんの源経信さん。さて大御所の判定は? というかジュニアに対する経信パパの判定やいかに。
歌合わせというのは、歌人を二手に分けまして、それでもって一対一の勝負を付けるという、なかなかハードな催しなのであります。文学における格闘技なのであります。たぶん、総合的に勝利を収めた方が、宮廷における名誉はもちろん、用意された金銀財宝の褒美を手に入れますから、なかなか厳しい戦いなのでありますね。「山桜」とペアにして勝負を競ったのは、皇后宮摂津という女流歌人の歌なんですが、お父さんの判定は引き分けなのであります。ただし、息子の歌について、この厳しいお父さんは、「きららかに詠まれたる」と評しておりまして、じつはベタホメなんであります。えこひいきに見えないように引き分けにしたんですけれども、実はジュニアの歌はお父さんの目にはとても上手に見えたようなんですね。源俊頼朝臣は、相手の歌と自分の「山桜」の歌を並べてそのまま『金葉集』に入れていますから、これは自画自賛、いわゆる自讃歌として胸を張って入れたわけでありまして、お父さんの「絢爛豪華に詠まれている」という賞賛の言葉を胸に刻んで、感謝の気持ちで並べたに違いないわけなのであります。勅撰和歌集というのは、ある意味生臭いと言いますか、政治的などろどろの部分があるんですが、これを体よく言い換えると温もりの感じられるものなのでありますね。
新人戦 勝ち初めしより ひさかたの 彼方に見える 全国大会(粗忽)
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