もぢり百人一首(79) アップデート版

79 秋風に たなびく雲間の 月の影 ふと漏れ出づる 愛のささやき


(通釈)折しも吹く涼しい秋風によって、それでは雲がたなびいて、その絶え間から漏れて来た澄んだ月の光。その月の光のような素敵なお姿を拝見して、私の口からはふと愛しいというささやきが漏れました。


(語釈)〇たなびく……雲や霞が横に引かれて広がっている様子。〇月の影……月の光。


(本歌)秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけき

    (『新古今集』巻第四・秋上 413番 左京大夫顕輔「崇徳院に百首の歌奉りけるに」)


顕輔の歌は新古今集の叙景歌であります。風景の歌であることは、誰が見ても明らかでありまして、台風がUターンして、太平洋に戻ったように、和歌の伝統も『万葉集』の叙景歌の流れに戻っていったわけであります。このころ『万葉集』を読むことも盛んであったと聞いていますので、そうした影響が出ているとも言えるわけです。ずっと繊細でしょうけれども。顕輔のお父さんは、顕季という人ですけれども、この人は『百人一首』に漏れておりまして、たぶん兼昌なんかよりも歌人としての評価は高いんですが、これといった名歌が無いのかも知れません。顕季さんは、柿本人麻呂を夢かなんかに見て、人麻呂の姿を絵に仕立てて崇拝したんであります、これを「人麻呂影供」と言うんですけれども、その行事は顕輔から清輔へと受け継がれていったんであります。そう言う家柄の叙景歌と理解すべきでしょうね。ただし、「秋風」に「飽き」、「雲」に「宮中・内裏」、そして空をめぐり行く「月」を男にたとえるなら、どなたか高貴な人への賛美と取れなくもないわけでありまして、もはや素朴な『万葉集』とは違う地点で歌が詠まれているのではないでしょうか。恋の匂いがぷんぷんして、月影さやかな男の登場でありましょう。

    


 この歌の問題点は、下の句でありまして、何となく分かるために油断しそうですが、実はちっとも現代語ではありません。「もれ出づる」というのは「もれいづ」の連体形ですが、現代語は「もれでる」でありまして、終止形も連体形も現代語では同じでありますし、不思議なことにこの言葉は現代語に変化しつつもすんなり残っているわけですね。この場合漏れ出るのは「月」ではなくて「影」であります。「影」というのは、ここでは「光」の意味でありまして、たとえば「月影」は「月光」でありますから、「日影」は「日光」のはずなんですね。微妙に間違えそうです。それから「さやけき」というのは「さやけし」という形容詞ですが、「さやかだ」というような言葉と語源は一緒でしょうけれど、実は現代語ではありません。それでも、実景が先に浮かびますから、この歌に疑問を抱くことはないのでありますね。しかし、夜吹く風にたなびく雲っていうのは、どういうことなんでしょう? ほら、実は妙な歌なのでありまして、絶え間というのは、縦なの横なの?


春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、山際少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。(『枕草子』)


辞書を引けばすぐに分かりますが、「たなびく」は横になった雲のようであります。でも、現代で「雲がたなびいているよね」などと言わないような気がするわけで、微妙であります。崇徳院が催した「久安百首」に提出した歌なんですが、その段階では二句目が「ただよふ雲の」とあったようで、崇徳院の「瀬をはやみ」と同じで、改作されているということが指摘されています。『枕草子』の場合、朝日が昇ろうとする光景なんですが、清輔の歌の場合は、どういう時刻のどういう月なのか、三日月なのか、満月なのか、有明月なのか、そのあたりが不明瞭な気がするんであります。「たなびく雲」「ただよふ雲」が晴天における雲なのか、それとも雨が降る前後の雲なのかというのも、実は明らかではないような気がいたしますが、誰も気にしないのでありましょうか。例えば、中秋八月十五夜の明月が空にあるのに、それを雲が遮ったものの、雲の隙間から月光が漏れ、それによって雲もその姿を明瞭に表すというようなことでいいんでしょうか。


何となく、和歌にご理解のある崇徳院が登場して、我々宮中の歌人たちもそのおかげで世間に知られて、心はなびいておりますよ、月光のような素敵な崇徳院様、というようなことかとふと思うのは深読みでしょうね。宮廷和歌と言うのは、油断のならないものだと、思うのですが。

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