もぢり百人一首(92) アップデート版

92 我が袖は 乾く間もなし 潮干狩り 人こそ知らね 穴場ありけり


(通釈)潮干狩りにやって来た吾輩の袖は濡れに濡れ、乾く時もない。誰も知らないのだが、絶好のポイントがあることよ。


(語釈)〇潮干狩り……遠浅の海岸で、砂の中の貝を採取し、あとで食べるために持ち帰ること。〇穴場……釣りなどで、多くの人が見過ごした獲物の取れるポイント。


(本歌)我が袖は 潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし

    (『千載集』巻第十二・恋二 759番 二条院讃岐「寄石恋といへる心を」)


作者は、源三位頼政のお嬢さんであります。源三位頼政さんというのは、近衛天皇か何かの時のヌエ退治で有名な方でありまして、その時の話で面白いのは、矢を二本用意していたというエピソードであります。あなたほどの名人が矢が二本とはどういうことですか、と訊かれて、ああ、もし万一射損じたら、おれをヌエ退治に引っ張り出したやつをあの場で射殺そうと思ったのさ、というようなコメントが残っております。以仁王を奉じて平家に反抗した人でありまして、平家滅亡の口火を切った人であります。地方の人ではなくて、摂津源氏と称する都にいた源氏でありまして、晩年に公卿になりましたが、弓の名人でもあったと言うことなのです。そして何より、この頼政さんは歌がうまかったのでありまして、『詞花集』以下に六十一首入る歌人ですから、お父さんと娘が『百人一首』に入っていてもよかったのであります。残念ながら、源三位頼政さんは入っていないのであります。   


 沖の石というものが一般名詞なのか、それともどこかの地名ないしは固有名詞なのか、という問題がありました。陸奥にあるという説と、若狭説とが対立しますが、まあ仮に陸奥だとすれば、殷富門院大輔の「雄島」(90番歌)も二条院讃岐の「沖の石」も、ともに松島あたりと言うことになりまして、宮城県の塩釜・多賀城付近というのは歌枕がたくさんあるのであります。大和朝廷は陸奥を征夷大将軍坂上田村麻呂によって征服させましたが、貞観地震の大津波で痛手を受けまして、ひょっとしてそのことが陸奥の歌枕に対する平安貴族の嗜好の原因になったのかも知れません。国家運営の難しさ、大規模災害に対する対処の困難、そういった課題を突き付けられ、日本列島程度の広さでも、古代の政府にとっては統治が思ったより難しかったのかも知れません。私の師匠は、その昔沖の石を仙台近郊で見たと何かの文章に書いておりましたが、さて今回その沖の石はどうなったのでありましょうか。「寄石恋」という題詠ですけれども、この四句目の「人」というのは、恋の相手を指す二人称でなければ意味を成さないことでしょう。「あなたは気付かないが」と訳すことで、一首が濡れた袖の存在を匂わす恋の告白の歌になるわけです。恋の涙を袖で拭うというのは、平安時代の基本でありましょう。


「人こそ知らね」の「人」は、やはり二人称でなければならないと思いますが、注釈書は基本的には三人称に取るようです。ただ、いくつかの注釈書は三人称だけど、恋の相手のことでもあると指摘しております。だったらもう、二人称だと言ったほうがいいかも。

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