もぢり百人一首(90) 追加 It's new work.

見せばやな 雄島の海人の 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色は変はらず
  (『百人一首』第90番・殷富門院大輔)


2021年バージョンでは、この歌に関して特に疑念も抱かなかったようで、従来の解釈の範囲で満足して、後はいろいろと思い出話などをしてお茶を濁してみたようです。2023年にこの歌を見ると、はっきりと問題点が浮かびまして、困ったなあと思う次第です。


諸説は、「だに」の解釈を誤っているのではないかと思います。前にもどの歌かで触れましたが、この副助詞は現在使われませんので、なかなかニュアンスを捉えるのが難しいんですが、世間では次のように説明することでしょう。


   「Aだに~、ましてBはいとど~」という類推用法。

    (訳)Aさえ~、ましてBはますます~。


   「Xだに~意志・希望・仮定・命令」という願望用法。

    (訳)せめてXだけでも、~しよう・~したい・~したら・~せよ。


だから、諸説は類推用法だとして、「雄島の海人の袖だに~、まして我が袖はいとど~」とするわけでありまして、私もかつては「そうかもね」と思っていたわけです。この説には、たぶん二つの弱点がございます。一つ目の弱点は、二つの袖を受ける「~」の部分が「濡れにぞ濡れし色は変はらず」なんでありますが、この表現の「濡れにぞ濡れし」という表現が濡れたことを強調しておりまして、これ以上強調しようがないということです。「だに~まして」の呼応からすると、この「濡れにぞ濡れし」をより強調しなければならないので、じゃあ「私の袖は赤く変わったのだ」と考えるんですが、「色は変はらず」と「色は変はりたる」は反対でありまして、そこが弱点になります。


二点目の弱点のほうが重要になりますが、初句の「見せばやな」は初句切れなので、倒置法となるはずですが、四句目あるいは五句目では倒置できないのであります。四句目の「し」は「ぞ」の結びの連体形ですから、初句には倒置できません。五句目の末尾「ず」も終止形か連用形ですから、せいぜい連用形とみなして四句目に掛かると考えるしかありません。ということは、ここが肝心かなめ、今回の大手柄になるはずですが、実は、この殷富門院大輔の歌は三句切れなのではないか、ということです。だとすると、その語順を変えると、「雄島の海人の 袖だにも 見せばやな」と言うことになりまして、「ばや」が希望表現の終助詞ですから、「だに」の解釈は願望用法でありまして、「せめて雄島の海人の袖だけでも(汝に)見せたいなあ」ということになります。そうすると、四句目と五句目と言うのは、見せたい理由を述べたということになるでしょうか。つまり、「(そのゆゑは)色は変はらず濡れにぞ濡れし(と汝も知るべし)」というわけで、「袖を見せたいそのわけは、色は変わることなく濡れに濡れたとあなたも気付くはずです」とでも訳すといいのでしょう。


この解釈がおそらくよさそうです。「だに」の願望表現は、「せめて~だけでも~したい」というような、最小限の希望ですから、その後の最大限の希望が隠れているわけで、それを示すなら「出来うるなら、汝に我が袖もせちに見せばや」となりまして、それは「濡れに濡れて、今は朽ち果てぬべし」というような状態なら一首は完結するでしょう。「出来ましたら、あなた様に私の袖もぜひともお見せしたい。ほれこの通り涙に濡れに濡れて、もはや朽ち果てようとしておりますよ」ってことでよろしいでしょうか。紅涙まで出すこともなく、袖は朽ちてしまえばいいわけです。


海人の袖 だにも汝に 見せばやな 濡れにぞ濡れし 色は変はらず

我が袖も せちに汝に 見せばやな ただ濡れに濡れ 朽ち果てぬべし

  


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