90 見せ場かな 色かはりたる 海女の袖 濡れにぞ濡れし あかいなみだに
(通釈)やっぱりあの場面が見せ場だよね。海女の女の子の袖は、海水ではなく、甘い恋の涙に濡れに濡れて、その赤い涙で赤く染まってしまったのさ。赤く色が変わっている海女の袖は、実はたき火に干してあるんだけどね。
(語釈)見せ場……特に人に見せたくなるような、価値のある場面。山場とも言う。演劇などで、人気のある演目の中でも話題になるような派手な場面のこと。三島由紀夫の『潮騒』という小説なら、火を飛び越えて海女の女の子が意中の男子の胸に辿り着くところ。この小説の映画化は、コンプライアンスを考えると今後は非常に難しい。
(本歌)見せばやな 雄島の海人の 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色は変はらず
(『千載集』巻第十四・恋四 884番 殷富門院大輔
「歌合し侍りけるとき恋の歌とて詠める」)
「涙で色の変わった私の袖を見せたいなあ」という歌なのであります。恋に泣き濡れたために、涙を袖でぬぐってみたら、涙が血の涙でありますから。真っ赤っか、この袖を見たら、だれも本気の恋であることは疑いません、まして恋の相手であるあなたは、というような歌なのであります。どこにもそんなことが書いてないのですけれども、これはそういうことが自然に分かる仕掛けの歌で、とても上手であります。緻密な歌でありまして、このあたりが日本の古典の歌の頂点を形成しているわけです。ここで思うのは、小学生の頃の私たちの袖でありまして、真冬などは、風邪を引いたりしますと鼻水が垂れるわけです。青っ洟などといいまして、なんとも表現できない危険な色の鼻水を垂らす子供がたくさんいたのです。それを、セーターの袖で拭いますから、袖はとんでもない色になっていて、光っていたりしたものです。血涙というのは、蝉の涙のことでありまして、あれだけ鳴いたら蝉の涙はすごい色だろうというのが古代中国の想像力でありまして、秋の紅葉の原因は蝉の血涙なのであります。この歌は、現代では好まれませんが、血涙なんて見たこともないわけで、それもうなずけますね。
『百人一首』の探索も、90首となりまして、あと一割、10首を残すばかりとなりました。
春から夏へと、随分長い間毎日のように『百人一首』に取り組んできましたけれども、計画的に取り組んできたわけではありませんから、不十分はもとより承知であります。しかし、途中で指摘しましたように、研究の厚みが見える注釈書が多いのでありますが、その組織だった書式の完備ぶりはそれぞれ圧巻なのでありますが、えてして横並び、従来の研究が手かせ足かせとなっているようでありまして、生意気を言えば物足りないところは山ほど出てきたのであります。
もちろん、一冊だけ買って読んだら、どれも立派な内容で、ありがたくお説を聞くだけで終わります。『百人一首』を本歌として、川柳を作るとか狂歌をこしらえるとか、そういう作業を試みようとすると、複数の注釈書を当たりますので、次第に疑念が膨れ上がりました。
この三ヶ月の間にも買い求めた注釈書があります。書店に参りますと、いろんな本が関連本として並んでおりまして、『百人一首』というのは今でも興味を引くもののようであります。しかし、一般的には地味な方でありましょうから、学習参考書的なものが主でありまして、それに老後の趣味に誘うものが加わるわけで、18歳以下と、60歳以上の、言ってみればマイナーな読者を想定しているようです。1975年(昭和40年)前後には、学者さんを中心にかなり充実した注釈書が出ていたことを考えれば、現在出ているものは軽めのものと言えるでしょう。それでも、しっかりとした問題意識によって書かれたものもあることが分かりました。それはそれとして、私の場合は一首ずつ思ったことを記しておりまして、すでに指摘があることを「大手柄」などと自画自賛しているかも知れませんが、井戸の中の蛙が叫んでいるだけですから、どうぞおかしな所があってもご容赦下さい。世の中が寛容な大海でありますように。
見せばやな 雄島の海人の 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色は変はらず
(『百人一首』第90番・殷富門院大輔)
よく見ると、初句切れ、そして四句切れでありまして。最後の「色は変はらず」がちょっと宙ぶらりんな感じなのであります。「色は変はらず、濡れにぞ濡れし」ということなのでしょうけれども、これだと音調がちょっと変なのでありまして、このあたりのことを折口信夫さんは卒業論文で論じていたと思います。「濡れにぞ/濡れし/色は/変はらず」というと味がありますが、「色は/変はらず/濡れにぞ/濡れし」というと、何か変なのであります。ともかく、濡れても色が変わらない海人の袖に対して、涙に濡れて色の変わった自分の袖を見せたい、という主張が歌の後から飛び出しまして、その仕掛けは見事なのであります。「だに」という助詞がその仕掛けの大本でありまして、あの海人の袖だって、色は変わんないのよ、って言ってるわけです。でも、私の袖は色が変わったの、とアピールするんであります。本歌取りの歌とされていますが、本歌がなくても、十分理解できますね。
海人は「あま」と読みますが、海士とか海女とか表記いたします。漁師さんや製塩業の人であります。
海女さんが海に潜るところを見たことはないのですが、伊勢の海女さんに会ったことはあります。伊勢で観光バスに乗りましたら、ガイドさんは民宿を営む海女さんでありまして、愉快愉快、非常に楽しいガイドぶりでありました。「昨夜はホテルに泊まった方?」って訊きますから、「ハーイ」ってみんな答えますと、「まずいご飯食べてきたのね、今度はうちに泊まんなさい」って言うんであります。民宿の宣伝であります。伊勢のあたりというのは、古くからの観光地ですから、なかなか接客が上手でありまして、面白いのであります。また、伊勢神宮門前の赤福でお団子を食べようとしましたら、時間切れになりまして、やむなくバスに戻りましたら、「お客さーん」と叫んで赤福の店員さんが追いかけてきて、なんとお代を返してくれたりもいたしました。バスのガイドさんも心得ていますから、ドアを開けて応対してくれて、受け取り損ねることもなかったのであります。伊勢と言うのは万事がこの調子でありまして、いい思い出になりました。
その後、2013年に宮藤官九郎さんの脚本で『あまちゃん』が連続テレビ小説としてNHKで放映されました。いまなら、みんなあま(海人・海女)を知っていてもおかしくはないのであります。
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