もぢり百人一首(86) アップデート版

86 おのが涙に かこち顔なる 法師かな 嘆きは月の 思はするのみ


(通釈)おやおや、そこにいるのはかつて北面の武士だった佐藤義清君ではありませんか。出家したのは本当なんだね。剃髪したんだ。なになに、自分の頬に伝う涙について、不満げな態度だね。まあ、法師は木石のごとしって言うから、喜怒哀楽を超越しなくちゃだめだよね。嘆きはあの空に浮かぶ月のように手の届かない、すてきなあの方がそなたの心に生じさせるものなのさ。


(語釈)〇かこち顔……うらめしそうな顔つき。


(本歌)嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる 我が涙かな

    (『千載集』巻第十五・恋五 926番 円位法師「月前恋といへる心を詠める」)

     ※円位法師は西行法師のこと。


私粗忽庵の大好きな歌であります。別に西行法師だから好きであるとか、何か特別な想い出があるとか、そういうことではありません。あえて言えば、「かこち顔なる」というところが、いいのでありまして、涙を落としながらも、そうした自分の感情に、割り切れないものを感じまして、ちょっと含羞がある、恥じ入っている、というところが微妙にいいのであります。西行法師という人をよく知りもしないのですが、こうした多面的な意識の表出というようなものについては、過去の人では無いような、近代人のような感じがするんであります。西行論でもぶつつもり? などと毒づかれそうですが、西行の歌をよく知っているわけでも何でもありません。なんとなく、胸に落ち着く物があるような気がするわけです。自意識過剰なところが、面白いということです。 


『千載集』の恋の五・926番に、円位法師の歌として出て来るものでありまして、「月前恋といへるこころをよめる」という詞書きを見る限り、題詠の歌であります。円位というのは西行の法名の一つでありまして、何だか別人のような気がいたしますね。この歌の問題点は、「かこち顔」という言葉が、元々あったのか、それとも「なになに顔」という表現による、一回こっきりの造語なのかどうかということでありましょう。この歌の、それぞれの句を、ためしに『国歌大観』の勅撰集の索引で引いてみますと、類例が極端に少ないのであります。非常に独創的で、本歌らしい物も見当たらないわけで、この歌人が天性の歌い手であって、けっして努力の人では無いことが分かるのであります。古歌を修得して歌を詠むようになった専門歌人の横を、さっそうと才能に溢れて歌を詠み散らしたわけでありまして、その証しとなるような歌なのであります。才能と言うものがどこから飛び出してくるか、実は分からないということの一つの証拠でありましょう。


この歌を擬人法であると指摘する向きがありますが、ええ? そうでありましょうか。


確かに月が人を嘆かせたり、涙がちゃっかり何かにかこつけて流れるというのですから、それはそれで擬人法ということも出来るのでありましょう。しかし冷静に見ると、「やは」の反語によって、表現は反転いたしますから、月は人を嘆かせないよね、と言っているのであります。西行は当たり前のことを言っているわけでありますし、雨や風に嘆かせられると言うことを、いちいち擬人法と呼ぶことが出来るのでありましょうか。雨や風や月や花が、歌を歌ったり、恋をしたり、裏切ったりするなら擬人法でいいと思うんですが、人は風雨花月を嘆く物でありまして、折悪しき風雨、心にしみる花月に、いつだって嘆かせられるはずなんですね。どこが擬人法なのか、ご指摘下さいな。それから、涙が「かこち顔」であるというんですが、涙のどこを見たら、表情と言いますか顔なのでありましょう。それはそれで、擬人法とすると面白いんですが、そんな馬鹿げたことを言ってはいけないと思います。「涙の馬鹿野郎、かこち顔して出てきやがって」ってことですか? 涙を擬人法にしているとする注釈書があったら、ぜひ破り捨てて、泥靴で踏んで捨ててください。おや、例外なくそうなんでありますか?


たぶんこれは違うな。「なる」は助動詞で、「どこそこにある」という意味の「なる」で、場所を示します。


つまり、「(我が)かこち顔」にある「我が涙」と言っているはずで、月のせいで嘆いているのだよ、泣いているんだよという表情をしているのは、この歌の詠作主体、すなわち主人公であります。月夜に月を見て、それで泣いているのだということを、周囲に訊かれたら言い訳しようと考えている人であります。別に西行さんという坊さんでなくていいわけで、むしろ宮廷女房などの、他人に囲まれて恋をしている女性です。つまり、涙の原因は、訪問してくれない男でありまして、月なんかで泣いているんじゃないわ、月のせいで泣いているふりをしようとしている私の表情に、彼のせいで流れる涙が一筋こぼれ落ちるの、と言っているんであります。それでこそ、「月前の恋」でありまして、どこに擬人法があるというのか、この歌はまったくまっとうな恋の終わりの一場面を詠んでいるのであります。やりましたね、これこそグランドスラム、起死回生の満塁ホームラン、多くの人が西行らしからぬつまらない歌を藤原定家が選んだと言って憚らないのですが、何でもない、歌なんかちゃんと味わっては来なかったと言うことでありましょう。


月のせいよとかこつけた私の顔に、紛れもなく存在する、失恋による涙。みんなにばれてしまいそう。


よくありますね。思い出して涙が出そうになりまして、しかたなくあくびをしてみまして、それから涙をぬぐうのであります。あくびにかこつけて、泣いていることをごまかします。だいたい「かこち顔なり」という形容動詞自体が、日本語の文法では認められないことでしょう。あるなら、いまでも「かこち顔な涙」って言えるはずですよ。これはおそらくは、「かこち顔にある涙」ということのはずです。「あきれ顔」とか「困り顔」とか、そう言う言葉で試してみてもいいですよね。「あきれ顔な涙」「困り顔な涙」って、ちょっと無理ですね。それなのに、擬人法という指摘が、まことしやかにあるんですけれども、私と同じくらいかちょっと上の世代は、学校教育で鬼の首を取ったように、先生やテストを通して擬人法、擬人法と教えられました。悪影響というのはあるものなのです。


硬直化した教育の弊害と言うものを、ここで言い募っても仕方のないことだと思いますが、しかしなあ、どの歌も誤読の拡散なら、試験にしてはいけないだろうと思いますけれども、どうなんでありましょう?

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