もぢり百人一首(84) アップデート版

84 長らへば 見し世は常に 慕はしき 憂きこのごろも 甘美なるらむ


(通釈)何の事件や事故にも遭わず、だらだらと長生きをしてみたら、昔はいつでもよかったなと思うものなんだよ。いやでいやでしょうがないコロナでマスクを付けていたこの数年も、みんなマスク美人だったなあ、なんて思うことになるんだろう。いや、すでにそういう気分になっている人が多数派だろう。


(語釈)〇甘美……辞書を見ると、「甘くておいしい」という味覚の用法が出て来るが、もはや「甘美な夢」とか「甘美な一夜」というふうに、人が「うっとりする 」ような感覚を表す言葉に変質している。



(本歌)長らへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき

    (『新古今集』巻第十八・雑下 1843番 藤原清輔朝臣「題知らず」)


清輔の歌は、分かりやすくて、味わい深い歌でありまして、無理のない言葉遣いがなされている歌であります。古典ではどの言い回しもふつうの言葉遣いばかりでありありますが、気になるとすれば「憂し」という形容詞が問題なのでありましょう。今までも何度も出てきた言葉でありますから、ここで問題にする必要性はないのですが、「憂い」という言葉は現代には残っておりません。「物憂い」ということばが、かろうじて残っているわけでありまして、そのお陰で何とか「憂し」という言葉は分かった気になるのであります。「いやだ・憂鬱だ」と考えれば当たらずといえども遠からず、たぶん間違ってはいないのでありましょう。しかし、本当はどうなんでありましょう。漢字の「憂」が当ててあるから分かるような気がするだけで、「うから」「うかり」「うし」とか、「うき」「うかる」とか「うけれ」などと平仮名だけで出て来たら、まったく意味が不明かも知れないのです。ともかく、この歌には、過去と現在、現在と未来が意識されていまして、過去も現在も「憂し」という気分で染め上げられているのであります。過去が甘美に感じられるが、その過去においては苦くて辛いものだったわけであります。ひょっとして今の憂鬱も、未来においては恋慕の対象になりかねないという想像力は、非常に納得の行くものであります。


2011年バージョンは以上ですが、2023年ですから、少し考察を深めてみたいと思います。ちなみに、「憂し」は「いやだ・きらいだ・不快だ」という嫌悪を表すと考える方がいいかもしれないと、前もって言っておきます。


「長らへ」は、下二段動詞「長らふ」の未然形。「ば」は接続助詞で、ここは仮定条件を表す。現代語訳は「永らえたら」「永らえるなら」となる。「また」は副詞。「このごろ」は名詞、ここは「現在」の意味。「や」は疑問の係助詞で、三句目末の「む」が連体形で結びとなっている。「しのばれむ」の「しのぶ」は四段動詞の未然形、「れ」は自発の助動詞「る」の未然形、「む」は推量の助動詞の連体形。「憂し」はク活用形容詞の終止形。「と」は格助詞で「見」の対象の内容を受けている。「見し世」の「見」は上一段動詞「見る」の連用形、「し」は直接体験の過去の助動詞「き」の連体形。よって、「見し世」は「かつて体験した人生・自分の過去」となる。「ぞ」は係助詞、結びは「恋しき」で形容詞「恋し」の連体形。「今」は名詞。「は」は係助詞。


(直訳)もし仮に、吾輩が生き長らえたなら、(今と同様に)またしても今現在を、自然と慕わしく吾輩は偲ぶだろうか。偲ぶのだろうよ。(当時は)「いやでいやでしかたない」と思っていた辛酸をなめ尽くした吾輩自身の過去を、今現在の吾輩は慕わしく思う。


別に清輔の和歌をそのままぼんやり眺めても、以上のような内容だろうということは察知できるわけで、変化はしたけれど日本語の根幹は変化していないと言えるんであります。ただ、それだけに、接続助詞・係助詞の変化と言うか豹変ぶりには驚くわけです。さらに、助動詞が様変わりしているわけで、実は現代には通じないのであります。形容詞の活用形も全然違うのであります。さて、違っているところを修正するとこんなふうでありますが、これはどうでしょうか。


長らえれば またこのごろを しのぶのか いやだと見た世を 今は恋しい


「またこのごろ」が(我に)「しのばれ」るだろう、とうっかり「れ」を現代語感覚で受身に理解しそうですが、実はそんな受身は古典文法では認めないので、「またこのごろ」を(我は、自然と)「しのんでしまうだろうか」が正解で、だから「れ」は自発用法のはずなんです。でもって、自発用法は消去しても意味が変わらないし、ついでに「む」の推量は現代語で省略してもいいので(「明日は雨が降るだろう」「明日は雨が降る」)、その結果三句目は「しのぶのか」で済むのであります。それから、「憂し」の問題ですが、「憂し」「つらし」「つれなし」というような形容詞は、ク活用形容詞でありまして、このク活用の形容詞は古くは心情を表明するような言葉ではなかったのであります。「高し」「深し」「からし」などと同じで、対象の状態を客観的に叙述する形容詞でありまして、その証拠に「憂き世」とか「つらき世」「つれなき世」なんて言えたはずで、これはもう「世知辛い世の中」というニュアンスなんです。もっと言うと、この世は地獄ってことでありまして、甘くはないのであります。裏切った恋の相手は「憂き人」「つらき人」「つれなき人」でありまして、これは単純に言うと「いやな奴」でありまして、親の仇のように殺したい人なんであります。


死ななけりゃ また今頃は バラ色か 地獄の過去を 恋しいおいら


例えばブラック企業で心を病んで退職した人が、転職先でまたここもブラックだと気が付いた、みたいな話であります。ということは、この清輔の歌というのは、ひとつ前の俊成と同じで「述懐」の歌でありまして、送り先の人物は明確ではないんですが、身分の高い方に不遇を訴えた歌らしいのであります。人生の真理を詠んだわけではなくて、「おいらを救ってください」「今の地位はブラックです」と愁訴したものということになりますね。


       



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