もぢり百人一首(82) アップデート版
82 思ひわび さても涙は 絶えぬもの 浮けば助かる 命なりけり
(通釈)通りすがりに乗った観光船が座礁して投げ出されたよ。困りに困り、生きる望みを失っても、なんとまあ涙と言うものは絶えず流れてしまうものだ。この涙の海に、ぷかぷかと浮くのなら、ひょっとすると助かる命であることよ。
(語釈)〇さても……驚きや発見を表明する感動詞。なんとまあ。
(本歌)思ひわび さても命は あるものを 憂きに堪へぬは 涙なりけり
(『千載集』巻第十三・恋三 817番 道因法師「題知らず」)
道因の歌を改めて眺めて、いい歌だなあなんて思ってしまいました。お坊さんの歌でありますが、女性の歌でも通じまして、別に男性作者の歌であると考える必要もないのでありましょう。道因法師の逸話というのは、『無名抄』がまとめておりまして、お年を召してからも和歌への熱中ぶりは群を抜いていたそうです。『千載集』に俊成が18首入れたら、夢に現れて感涙にむせびながら道因法師がお礼を言ったというので、俊成さんはもう二首増やしたんだそうです。この歌は、やはり動詞が要注意でありまして、「わび」「堪へ」が大問題であります。それから、三句目の「あるものを」は、『百人一首』第65の相模の「恨みわび」の歌でも出てきましたが、この道因の歌を考えてみても、「ある」は存在する・しないという意味であることは間違いありません。たぶん相模の歌で滑っている注釈は、『百人一首』全体すら検討していないことがばれているわけです。
さて、「思ひわぶ」という動詞を考えるのが筋でありまして、「思い嘆く」とか「弱り切る」とか、ともかく現代語の「詫びる」ではなくて、精神的に参っていることを意味している動詞と言ってよいでしょう。現代語の「わびる」は誰かにごめんなさいと謝罪することを意味する動詞ですが、古典では失恋とか生活苦を嘆く動詞です。その状態でも、命は「堪へ」ているのに、ということで、「あるものを」の「ある」は命が「保たれている・まだ存在している」ことを意味する動詞でありまして、「堪ふる」と置き換えても、解釈は容易なのであります。命は持ちこたえているのに、涙は「堪えぬ」あまりに流れ落ちている、というような対比が眼目なんでしょう。しかし、それだけでは、何だか物足りないわけで、いままで検討してきたことからすると、ここにももうちょっとましな修辞が隠れている可能性があるわけです。「堪へぬ」に「絶えぬ」が掛かってしまうのではないかという説もあるんですが、ハ行とヤ行の下二段動詞の混乱ですから、あんまりよろしくないようであります。
世の中はかなきを見て
憂けれども 生けるはさても あるものを 死ぬるのみこそ 悲しかりけれ
(『貫之集』775番)
こんな歌を見付けてしまいまして、どうやらこれがヒントになって出来た歌かも知れません。『貫之集』の巻八にありまして、素性法師がなくなったことを凡河内躬恒と嘆いたあとに出て参りますから、これは「(世の中は)憂けれども、生ける(我ら)はさてもあるものを、死ぬる(素性法師)のみこそ悲しいかりけれ」というような、悲しみの歌なのであります。それを恋の歌に転じたとすれば、なかなかの本歌取りということもできるのであります。紀貫之の歌で対照的な扱いを受けている「命」と「涙」が、もとの歌では「生ける」と「死ぬる」すなわち「生者」と「死者」でありまして、鮮やかな転換が図られているのであります。
つまらない掛詞を紹介するつもりであれこれ考えているうちに、道因の歌に本歌を見付けてしまいました。貫之の歌が本歌だなんて、すごくおしゃれでありまして、これもまた大手柄かも知れません。
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