もぢり百人一首(77) 追加 アップデート版
瀬を速み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ
(『百人一首』第77番 崇徳院)
分かんないところなんてなさそうな和歌でありますけれども、じゃあ本当に分かるのかというと、やはり遠い昔の作品ですから、なんのことやらさっぱり分からないと言うことが生じますよね。前にも書きましたが、粗忽庵の狭い書斎にも本は少しはありますが、それらを見ると混乱してわけが分からなくなるのは必至なんですね。まあ、常識で少しずつ崩してみましょう。どうしたって、真面目な古典の講義になっちゃうね。
(通釈)急流なので岩に阻まれて流れが割れても、滝川は結局すぐに合流する。私たちもそう願いたい。
良くできました。結構短くまとまりましたね。いかにも百人一首らしい、技巧の凝らされた歌でありまして、撰者の藤原定家好みの熱い恋の歌でもあります。この歌は、元来恋の歌として詠まれたものですから、滝川に関連する部分というか、風景に関係する表現は、本当は要らないのでありますが、実は表現された言葉に無駄な部分というか、不要な部分なんてことはありませんから、しっかり描かれた風景を味わい尽くすことが必要なんですね。
(語釈)
◆「瀬を速み」……「~を~み」というのは、理由を表す平安時代としても古い語法なのでしょう。「を」は格助詞ではなく、間投助詞だと思った方がいいでしょう。「み」は、「~ので」と訳すから、接続助詞だと思ってしまえば簡単ですよ。「瀬が速いので」というのは直訳ですが、「急流なので」と解釈すると、いいのかも、ということです。
◆「岩にせかるる」……ここが、たぶん古典文法なら一番難しいところでしょうね。「せかれる」というのが現在の語形になるはずなんですが、やっぱり「せか」の部分が意味不明になってしまいます。これは、「塞く」という動詞なんですけれども、これの連用形「せき」というのは、関所の「関」という名詞と関連があるわけです。つまり「塞く」は、今で言えば「せきとめる・邪魔する・阻む」と言うことなんですね。「るる」は、受身の助動詞の連体形ですが、現代語と語形が変化していて、微妙に嫌な感じですね。「岩に阻まれる・岩に邪魔される」となるのでしょう。
◆「滝川の」……この「の」は、学校の文法だと、連用修飾格の「の」ということで、「のように」と訳しなさいと、高校生の頃に習いますよね。比喩を表すと言ってもいいし、「の」のところまでが序詞ですよ、と説明したりするんですが、ほんとはどうなんでしょう。これをね、主格と思ってもいいんですよ。大学受験なら、主格って答えたら×だけれども、上で訳してみたらあんまり変じゃないでしょう。「滝川が」としてもちゃんと通じます。
序詞というのは、イントロということ。バックコーラスと考えても良い。その下からメインボーカル。
◆「われても末に逢はむ」……「む」は、滝川の風景を述べていると考えると、推量の助動詞。ええ、嘘言うなよ、なんて思う方は、秀才だけど、思考がパターン化している人ですね。「滝川が割れても末に合うだろう」で、どこも変じゃないんですよ。それでもって「む」を意志に取ると、恋の歌としての正体が見えやすいのは事実でありますけれども、「割れても末に逢おう」っていうのは、変ですよね。それでもなんとなく、「別れてもいつかは再会しよう」ということは分かってしまって、疑問を抱かないと思いますけれども。川の流れの状態から考えると、すぐに合流しますから、「すこし離れるけどすぐに合体しよう」とか「今夜はお別れするけど、明日の晩にはまたね」、というような感じですよね。世間の注釈は、「末」という言葉を大げさにとって、「別離」を考えてるはずなんですが、ほらね、みんな嘘っぱち教わってるの。川を考えなさいよ、ふつう、上流で別れて下流で合流なんかしませんよ。あはは、ずっと後で合流するだなんて間抜けで馬鹿みたいだな。
男女の仲も、あとで復活するのは無理だよね。男はともかく、女の人はすぐ忘れるだろう。
◆「とぞ思ふ」……滝川の風景を受けて「~と思う」の部分だけが心情なんですね。「ぞ」というのが、係助詞で、この助詞があると、文末の動詞などを連体形という活用形で終わらせるんですね。「思ふ」という動詞だと、普通の終わり方を示す終止形の形も、ここでの連体形という形も、どちらも「思ふ」ですから、なんだか変な感じですが、たぶんアクセントやら、実際の発音は相当違っていたはずなんですね。係り結びがあると、きっちり終わった感じ。要するに、言いきった感じがするでしょうね。きっぱり、と言うことです。
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