もぢり百人秀歌(53) アップデート版
53 亡きあとも 涙の色は くれなゐに 我をひねもす 惜しむこともがな
(通釈)私が死んだ後も、帝の涙の色は紅で、どうかわたしを昼間の間もずっと追悼してくれるということがあるといいなあ。
(語釈)〇ひねもす……朝から晩まで、の意。一日中ということ。一晩中の意を表す「よもすがら」とセットになることもある。
(本歌)夜もすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき
(『後拾遺集』巻第十・哀傷 536番 一条院皇后宮
「一条院御時、皇后宮かくれたまひてのち、帳の帷の紐に結びつけられたる文を見つけたりければ、
内にもご覧ぜさせよとおぼし顔に、歌三つ書き付けられたりける中に」)
ええ、こんな歌あったっけ?と思った方は、『百人一首』をそらんじている立派な方でありまして、これはよく見ていただくと分かる通り、『百人秀歌』という藤原定家の秀歌撰の一つにある歌であります。この『百人秀歌』という秀歌撰は、101人の各一首、計101首から出来ておりまして、その97首が『百人一首』と共通しているというものであります。どうやら、藤原定家が宇都宮頼綱という武士から依頼されて制作したものは、この『百人秀歌』のようでありまして、このことは『明月記』という藤原定家の日記と照合しても確実であります。おそらくこの『百人秀歌』が先に出来ておりましたが、あとで4首を除き、3首を加えてできたのが『百人一首』なのであります。除かれたのは、一条院皇后宮・権中納言国信・源俊頼朝臣そして権中納言長方の歌でありますが、あとで加えたのは源俊頼朝臣・後鳥羽院・順徳院の歌であります。つまり、源俊頼に関しては歌を差し替えただけですが、鎌倉時代の天皇を二人加えるために、除かれてしまった平安時代の歌人が三人いたということなのであります。一条院皇后宮というのは、藤原定子さまのことでありまして、実は『百人一首』には皇后の歌というか天皇の后妃の歌がありませんから、あったら大変な名誉であったわけです。ここから、四首ほど、『百人一首』に落選した歌を紹介してみようという趣向であります。定子さまの歌は、『百人秀歌』の53番目にあるものです。
(我と)夜もすがら 契りしことを (我亡き後も帝が)忘れずは (我を)恋ひむ(帝の)涙の 色(を)ぞ(我は)ゆかしき
『枕草子』に出て来る中宮定子さまというのが、この一条院皇后宮であります。学校で習いますと、『枕草子』というのは上品な優雅なお姫様のやんごとなきお話として習ってしまうんですが、多分そうではなくて、この方は当時最先端のウィットをもって会話をしていた人でありまして、駄洒落とか冗談が大好きだったのであります。それを表現する形容詞が「をかし」でありまして、この単語は「面白おかしい・愉快・楽しい」ということのはずであります。「をかし」を「趣深い」と教えることがありますが、1975年あたりで専門家はその解釈を破棄し、「面白おかしい」に乗り換えたんですが、知らないと共通一次やセンター試験では点が取れませんでした。定子さまが一条天皇のもとに参りましたのが永祚二年(990)のことでありまして、亡くなったのが長保二年(1000)のことでありますが、約11年に及ぶ結婚生活は、前半はおおむね幸福でありますが、後半はこれはもう不幸の極みでありました。父の中関白道隆の死、兄弟の伊周・隆家の失脚、母の高階貴子(『百人一首』第54番歌の儀同三司母)の病没、いいことは何もなかったかも知れません。三番目の子を出産しまして命を落としましたが、死後に御帳の帷の紐に結んであった文に辞世の歌が三首書かれていたのだそうです。その中のひとつがこの歌というわけです。『後拾遺集』の哀傷の巻頭に載った歌なのであります。
「ゆかし」という言葉のニュアンスがなかなか難しいかも。これは「見たくて仕方ない」というニュアンス。
やっぱり、助詞や助動詞が難しいのでありまして、「し」が過去の助動詞であることは簡単ですが、「ずは」は打消の入った仮定条件でありまして、全体が未来時制になるのであります。「む」は推量・婉曲の助動詞ではありますが、いっそ仮定条件に訳してしまうのがいいのかも知れません。「夜通し愛し合ったことをお忘れにならないなら、死後も私を恋い慕って下さるでしょう。もしそうなら、帝の流す追慕の紅涙を、悲しみの証しとして、ぜひとも見とうございます」というようなことを言っているのでありまして、なんとも壮絶な歌なのであります。『百人一首』が完成版であるという立場に立つと、『百人秀歌』にあって脱落した4首より、あとで入れた3首が上ということになりますけれども、私はへそ曲がりですから、もうちょっと違う事を考えます。『百人一首』に仮に特定の受取人、すなわち読者がいたとして、その人に合わせての入れ替えでありますから、藤原定家が自分の趣味趣向を抑制して、相手に迎合することもあるんじゃないでしょうか。だとすれば、これは愛唱歌で、相手に知られたくなかった大好きな歌だったとも言えるでしょう。お后様が、死んでも帝に興味を持ち続ける愛着は、実は尋常ではありません。
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