もぢり百人一首(39) アップデート版
39 浅知恵で 隠せど余る 恋心 思ひあまつて 伸びる篠原
(通釈)隠せば何とかなると思ってはみたが、好きな人の前ではもじもじしてぎこちない素振りがかえって目立っているような気がする。そっけなくしようと考えてみたけれど、隠せば隠すほど目立ってしまう恋心、密集してぐんぐん伸びてまるで壁のようになっている篠原と同じで、もうもて余すほどの気持ちだよ。
(語釈)〇浅知恵……浅はかな知恵。一見利口そうに見えるが、実は計算高い心の底が見えて役に立たない考え。類義語に「猿知恵」がある。〇篠原……篠竹の生えている野原。篠竹はイネ科の多年草。竹に似ているが、茎の部分の直径が1~2センチ程度、高さは2メートルから4メートル。笛や筆の軸、行李、葦簀などの材料になる。
(本歌)浅茅生の 小野の篠原 忍ぶれど 余りてなどか 人の恋しき
(『後撰集』巻第九・恋一 578番 参議等「人につかはしける」)
二句目までが序詞で、同音の反復によって「忍ぶれ」を導くという点で、非常に分かりやすい歌であります。修辞技法を紹介するにはうってつけでありますが、さてそんなに簡単な歌なのかどうか、今から考え始めるんですけれども、この歌の問題点は「余りて」の部分のような気がいたします。現代語の感覚では分からないニュアンスでありまして「余って恋しい」などということは現在は言いませんよね。何かあるような気がいたします。私が無知なだけですから、それはそれでご容赦願いたいのですが、ここのところの三首の作者、文屋朝康・右近・参議等というのは、ほんとうに馴染みのない作者でありまして、そんな歌人聞いたことがないのであります。昔の不勉強がばれてしまいますし、教養のなさが露呈するんですが、それにしてもこんな歌人で百人のラインナップというのは大丈夫なんでありましょうか。有名な歌人、有名な古歌というコンセプトが、どうも揺らぐような気がいたしますね。参議等の歌には本歌が指摘されいまして、こちらの方がはるかに分かりやすい歌であります。こちらの「しのぶ」は思いを寄せる意味ですが、参議等の「忍ぶれ」は恋心をがまんするの意味です。
浅茅生の 小野の篠原 しのぶとも 人しるらめや いふ人なしに
(『古今集』巻第十一・恋一 505番 詠み人しらず「題知らず」)
参議等は嵯峨源氏でありまして、嵯峨天皇の末裔ということのようです。だから「源等」が名前ということで、源氏にはこの類が多いのであります。「等」のお父さんは「希」、その父が「弘」、その父が嵯峨天皇でありますから、曾孫に当たる方らしいのであります。嵯峨源氏の人々には、こんなふうに一文字の名前の人が多くて、有名なのは左大臣だった融でありまして、『百人一首』14番の作者河原左大臣であります。「融」は「弘」の弟だったようであります。なお、源氏には「光」という人もおりましたが、『源氏物語』の主人公は「光」ではありません。「光源氏」の「光」は修飾句ですから、そこのところはお間違えなく。
ふと気が付きましたが、「余りて」は副詞がいいようで、『日本国語大辞典』はそう扱っています。それでもって、おそらくは「篠原」と縁語なのでありますね。持てあますほど伸びるのでありましょう。そうすると分からないのは、初句の「浅茅生の」が「小野」を導く枕詞なのか、どうかという点です。それから、歌の中に「浅茅」と「篠」と植物が二つあるのかどうかと言うことですね。「浅茅生」と「小野」と「篠原」がすべて地名と言うことはないと思うのですが、そう言うことも考えなけりゃならないんでしょうね。もう注釈書が今ひとつであることは分かりましたから、好き勝手に奔放に考えることにいたしましょう。ネットで「小野の篠原」を検索したら、くさるほどの『百人一首』のブログや記事が出てきまして、それもこれもコピペで記事を構成し、アクセス数を稼ぐためのもののようであります。
浅知恵で 小野の篠原 調べれど 余りてなどか 価値の乏しき
ここまで奔放に物を言いすぎて、自分でも持てあましているんであります。その上、むさ苦しいんではありますが、次のような歌が出来てしまいました。ただし、笹塚には行ったことがありません。どの辺だろう? 新宿のちょっと先だったような気がいたします。
武蔵野の 渋谷の笹塚 ささやけど 却りてなどか 人のなびかぬ
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