もぢり百人一首(42) 追加 アップデート版

君をおきて あだし心を わが持たば 末の松山 浪も越えなむ

   (『古今集』巻第二十・東歌 1093番 詠み人知らず「陸奥歌」)


有名な恋の歌がありまして、絶対浮気なんかしない、愛しているんだよ、と誓いを立てた歌なんでありますが、これがどうも津波の歌のようなんですね。私には津波の歌にしか見えないんですが、片桐洋一先生もそうは言わないのであります。誰か言っているのかも知れませんが、いままで津波の歌であるよ、三陸海岸の歌だよとは誰も言っていないのであります。三陸海岸の範囲がどの辺かという問題はあるんですが、南を牡鹿半島までに留めると具合が悪いので、塩竃くらいまでを含めると都合がいいのであります。つまり、文字通り、陸前・陸中・陸奥の海に面したところと考えるとよいでしょう。


末の松山という歌枕(名所)については諸説があるが、どうも多賀城の宝国寺のことらしい。


もう一つの有力な候補地は、岩手県の二戸市と一戸町の間にある浪打峠でありますが、こちらはかなりの内陸地なんです。よって、松尾芭蕉も訪ねたという宮城県多賀城市の宝国寺が、なかなか有力だと言うことなんです。何せ、このお寺は山号が「末松山(まっしょうざん)」でありますから、和歌に由来しているのは疑いようもないとも言えましょうね。歌の意味は、片桐洋一先生の訳で紹介すると、「あなたをさしおいて、他のひとに心を移すようなことを私がしたら、あの末の松山を浪が越えるというような、あり得ないことが起こるでしょう。だからそのようなことはありません」と言うのですけれども、古代の津波の記憶をバックにして、巨大津波でも越えないところを言ってみたのではないでしょうか。それくらい、数十年の時を隔てて生じる津波の破壊力を脅威に感じていた共同記憶があるのではないか、ということです。忘れたころにやってくるものなのです。


末松山宝国寺には、比翼連理の喩え通りの松があったのだというのだが、いつから?


比翼連理というのは、これまた白楽天の『長恨歌』からくる故事であります。『長恨歌』の成立は唐の時代の806年であります。紫式部が『源氏物語』桐壷の巻でこれを下敷きにして物語を書いたくらいですから、普通にお勉強すると話題として出てきてしまうんですが、要するに玄宗皇帝と楊貴妃が七夕の日にベッドでいちゃいちゃして睦言を言ったというなかにでてくる物なんでありますね。詩人である白楽天の想像の産物でもいいのですが、こっそりのぞいた召使いなどがいてめくるめく愛の言葉を聞き覚えて広めたのかも知れませんね。そういう種がないと詩人も詩にしにくいはずであります。来世も私たちは離れずに、翼のくっついちゃった鳥になろう、枝の付いちゃった木になろうというような、べたべたの愛の言葉なんですね。学校教育で教えて構わないというものでは、本来ありません。


予習は以上で、松尾芭蕉の『奥の細道』を引用してみると、こんな具合でありますね。


◆それより、野田の玉川、沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造りて末松山といふ。松の合ひ合ひ、皆墓原にて、羽を交はし、枝を連ぬる契りの末も、終にはかくのごときと、悲しさも増さりて、塩竃の浦に入相の鐘を聞く。

(訳)それから、(名所歌枕の)野田の玉川や沖の石を訪問した。(名所歌枕の)末の松山は、(今では)寺を造って「末松山(まっしょうざん)」と呼んでいる。松の合間合間は、全部が墓のある原っぱで、(この名所歌枕にあやかって)比翼連理の契りを結んだ(夫婦などの)結末は、結局はこうして故人となると、悲哀もつのって、(夕暮れにたどり着いた)塩竃の浦で入相の鐘を聞く(時刻となった)。


何故、大和朝廷の都の歌人が、東歌を重視していたのか、ほんとうのところ分からない。


関西の人に聞いてみないと分からないのかもしれませんが、『万葉集』も『古今集』も京都の人が作る歌集に、この東歌というのが目立つのであります。お好きなんですかね。伊賀上野の松尾芭蕉という人も、広義にとれば関西人であります。私から見たら、都の人という気にさえなりますが、なんで東北地方へわざわざ来たの? というような感じがするんですね。何かそそられるのでありましょうか。だとすれば、末の松山というのはロマンチックなんですね。海岸近い夫婦の松を見て、絶対浮気しないぞと誓うのであります。しかし、浪は押し寄せて、末の松山を越えることがあるのかもしれません。自然の脅威に震えてしまいますね。


以上はほぼ2011年の3月12日くらいに書いたものですが、今思うに、国家というものは中心にある都と、他国との境にある国境によって成立するわけで、中央にいればいるほど、辺境地帯が気になるということかもしれません。数学の幾何で円を描くとなれば、コンパスで描きますけれども、あれも中心に針を刺して固定し、周囲をぐるりと鉛筆などを回して描くものであります。だとすると、平安時代の京都から見て、辺境である地域というのは、異民族のいた「陸奥(みちのく)」と「筑紫(つくし)」でありまして、支配が緩めば反乱が起きるのであります。それから、陸奥の国守というのは、平兼盛もそうですが皇統が赴任することがあったわけで、それくらいじゃないと示しが付かなかったのだろうと思います。


 

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