もぢり百人一首(42) アップデート版
42 波越えて 袖しぼりつつ 干す涙 かたみを拾う 末の松山
(通釈)末の松山をついに津波の波が越えて、被害の大きさに涙で濡れた袖を絞って干すことよ。波が引いた後で形見を拾うこの切なさよ。
(語釈)〇袖しぼり……涙は袖で拭うものなので、ひどく泣いたことを袖をしぼるという言い方で誇張したもの。〇かたみ……形見は、古くは生きている人を偲ぶもの。死者から生前にもらった物や死者を偲ぶものというのは新しい。本歌の「かたみに」は、お互いにという意味。〇末の松山……陸奥の歌枕。国守の屋形があった多賀城付近の丘陵で、海からは距離があったが、貞観年間の津波が押し寄せて波に浸ったか。
(本歌)契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは
(『後拾遺集』巻第十四・恋四 770番・清原元輔
「心変はりける女に、人に代はりて」)
「契りきな~とは」という表現は初句切れによる倒置法。「き」は直接体験の過去を表す助動詞。古典の助動詞は、自分が直接体験したのか、それとも伝承伝聞などによる間接体験なのかについて、異常に区別を試みるところがある。このばあい、共有体験した事柄について相手に確認しようという強い意識を表明している。「絶対、あの時、こう言ったよね、約束したよね、私たち」というような言い方である。恋に落ちた時に、互いに燃え上がって浮気しないと約束したというのである。なお、詞書から代作だとわかる。
前に出てきた清原深養父さんのご子息の歌であります。「末の松山」に関しては、3月の大震災・大津波の後であれこれ考えましたので、もう蒸し返すことはしませんが(蒸し返して、追加として次に出します)、これだけの被害がありますと、やはり貞観地震を前提とした歌枕であった可能性は大きいのではないかと思うのです。今問題になるのは、「かたみに」が古語でありまして、「互いに」の意味の副詞なんですが、つい誤解してしまいそうですね。3ヶ月たちましたが、この歌を冷静に分析する気分にはなれないのであります。作者は、『後撰集』の撰者の一人でありまして、いわゆる梨壺の五人の一人、もちろん清少納言のお父さんであります。頭がはげていた方で、それにまつわる楽しいエピソードが今昔物語集などにありましたので、明日、探しだして紹介したいと思います。
元輔さんの歌は初句切れの歌であります。ですから、初句が実は五句目の後に回り込んで、一首が完結するわけです。「浮気はしないと約束したわね」と言うんですから、今は裏切られて泣いているんですね。約束の時は、「互いに袖の涙を絞って」という相思相愛、極まる恋情のなかで夢うつつだったわけですが、今は「一人で失恋の涙を袖に流して」いるわけでありまして、夢破れたあとの失恋の悲しみが余情として浮かぶわけであります。『奥の細道』の旅では、松尾芭蕉は「末の松山」を見ておりまして、今回の大津波だと波が越えたみたいでありますから、1000年に一度の大災害を詠み込んであるわけです。京都の歌人が、遠い陸奥の歌枕を詠む背景には、古代の律令国家を揺るがした大事態が影を落としていると見るべきでしょうね。
『今昔物語集』本朝世俗部、巻二十八の第六話に、清原元輔さんが登場であります。
賀茂の祭りの使いをつとめた時に、落馬するというハプニングがあったというのです。それも、一条大路の殿上人が見物していた真ん前のことで、ご老体だからみんなはらはらして気の毒がっていたというのですね。ところが、夕日のなかを立ち上がった清原元輔は、はげ頭をぴかぴかさせながら演説をぶち始めたわけです。この時代の貴族というのは、頭髪をとても恥ずかしがって必死に隠すものなんですが、この人は家来が渡そうとする冠を無視して「皆さんに申しあげたいことがある」と仁王立ちしたわけです。頭髪が恥ずかしいくらいですから、禿げ頭はもっと恥ずかしいものだったようで、人前では絶対に見せてはいけないもののようです。にもかかわらず、何をこの人は始めたのか。
角川文庫の『今昔物語集』(佐藤謙三さんの校注)昭和30年刊。
すっぽんぽんのお父さんに毛がないわけですから、大爆笑が起きてしまうんですが、笑っている若い貴族の一人一人のところを回りまして、落馬がどうして生じたか、過去の貴族の落馬にどんなのがあったか、詳細に語って聞かせたそうです。「だから笑うでない」と言うんですけれども、はげ頭の言うことですから、みんな笑いが止まらないんであります。いつも笑いを取っていた人です、というような落ちが付いていますから、面白い人だったと言うことなのです。
貴族と言ったって、腰には刀を差して宮中に上がりますし、馬には乗るし、日頃の鍛錬は弓矢の稽古なんであります。つまり、貴族はもともと武人でありまして、政治と軍事は一体のものでありましょう。鎌倉時代に武士の政権ができたというのは、まったくの嘘っぱちでありまして、下級貴族や地方の官僚が武士のような存在だったわけです。平安時代だって、地方で反乱が起きれば中央から制圧に行ったんですから、貴族だって軍事的側面が大きかったのであります。
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