もぢり百人一首(38)  It's new work.

38 忘らるる 身をば思わず 減らず口 彼を逃すは 惜しくもあるかな


(通釈)振られて忘れ去られる我が身のことなんか、惜しいとも何ともないわと減らず口を言うものの、あんなにいい男を手放すのは、すごくみっともなくて、憎くて悔しくてもったいないことだわ。


(語釈)〇忘らるる身……振られて忘れ去られる我が身、の意。「忘ら」は四段活用の動詞「忘る」の未然形、「るる」が受身の助動詞「る」の連体形。現代語の「忘れる」は下一段活用型で、古典では下二段活用だった。よって、打消し表現を付けると「忘れない」とか「忘れず」となるが四段活用の「忘る」に打消しを付けると「忘らず」となる。四段活用は現代には残っていないが、おそらく「積極的に忘れる」ということで、現代語で言うなら「相手を振る・相手を捨てる」、最近なら「ブロックする」ということになるだろう。〇減らず口……少しも遠慮せず憎まれ口をたたくこと。また、負け惜しみを言うこと。(『岩波古語辞典』)古語辞典にあるくらいなので、近世以前にさかのぼる言葉。ちなみに、ネットで「減らず口」の説明を求めると、いろいろな説明がされていて面白い。減らず口のオンパレードになっている。〇も……叙述が不確実であることを表す係助詞。並列もしくは類例があることを示す。打消し表現が下に来ることを想起させる表現でもある。



(本歌)忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな

    (『拾遺集』巻第十四・恋四 870番 右近「題しらず」)


問題は二句切れの歌と見るか、三句切れの歌と見るかという点に絞られるだろう。そういう紛れが生じるのは、二句目末尾の「ず」という打消の助動詞が連用形にも終止形にも取れてしまうという弱点が存在するからである。ここは、五七・五七・七というリズムの歌であったと考えることで解釈は定まるだろう。つまり、「ず」を終止形と捉えて、「忘らるる(我が)身をば(惜しくは)思はず。(我に永遠の愛を命にかけて)誓ひてし(汝と言ふ)人の命の(絶えなんとするが)惜しくもあるかな」と補えば、この歌は分かりやすい。さらに、「も」の働きを考えると、「人の命の惜しくもあらず」という本音が見える。


和歌から俳句が文芸として独立したのは、五七五七七という和歌を、連歌俳諧の盛行によって上の句・五七五と下の句・七七に分けて付け句するということが当たり前になったのが前提でありましょう。その連歌俳諧の冒頭の五七五を、その重要性から発句と呼ぶようになったことが大きいはずなのであります。発句は、一座のリーダーである宗匠が提示するものでありますから、これを受けて参加者は句を作るものなのであります。『奥の細道』は俳諧の紀行文ということになっておりますが、よく見ると松尾芭蕉は連歌俳諧の宗匠らしく句会を開いているし、作品中には和歌だって出て来るのであります。例の「五月雨を集めてはやし最上川」という句がありますが、本来は「五月雨を集めて涼し最上川」だと分かっていますけれど、あれもたぶん連歌の会の発句だったと考えるべきでしょう。とすれば、参加者たちはのちに『奥の細道』を読んで、宗匠を囲んで付け句を楽しんだ一夜を思い出したことでしょう。


   五月雨を 集めてはやし 最上川 疲れし脚に 効くは船旅


学校教育で五七五の俳句を作れと強制することがありますが、あれがおかしいのは、連歌俳諧というものの存在を知らせないで、いきなり五七五のみを作れというためであります。児童・生徒は何を急に語れと言うのかと驚きますし、真面目な子供ほど恐れおののくことでしょう。できれば教師が発句を示して、今日のテーマを紹介し、そこに七七を付けなさいというのが正しい在り方のはずであります。名のある宗匠クラスなら、季節を考え、今いる名所旧跡を考慮し、時流を思いめぐらして、その場の弟子たちの興味関心がかきたてられるような発句を思いつくでしょうが、子供がいきなり作れと言われても、交通標語の出来損ないくらいしか思いつかないのは道理であります。


   授業中 急に俳句は 作れない 先生それは アカハラですよ 


ともかく、俳句が成立してしまったことで、いまでは和歌を見ても「五七五」という上の句と、「七七」という下の句に分けてしまいがちですが、万葉集までさかのぼると、長歌などは「五七」の繰り返しが延々と続くわけです。そして、長歌の最後だけ、もう一度「七」の句を付けて終わるわけでありまして、その一番短い形式が短歌でありますから、これはもともとが「五七」「五七」「七」というまとまりになるわけです。右近の歌はこれでもって考えるとすんなり頭に入ります。


  『大和物語』第84段

  おとこの、忘れじとよろづのことをかけてちかひけれど、

  わすれにけるのちにいひやりける

     忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな

  返しは、え聞かず。


右近の歌は『大和物語』に入っているわけですが、この恋愛の経緯を見たら、解釈に紛れるところはほぼないのであります。「よろづのことをかけてちかひ」というところに、「命を懸けて誓ひ」というニュアンスを読み取れば充分でありましょう。また、「ず」を連用形にして「忘らるる身をば思はず誓ひ」とする場合には、「誓ひ」の主語を作者自身とするようですが、それは、恋愛の歌としては不可ではないでしょうか。恋愛というのは、振られるリスクがあるほど燃えるわけで、身分違いの恋なら「忘らるる身を」覚悟しながらするものであります。よって、「誓ひ」の主語は相手であり、それは『大和物語』の本文がびしっと書き示している通りと見るべきなのであります。要するに、さんざん命を懸けて愛しますと誓った男に対して、あなた死んじゃうのね、惜しいわよ、ほんとはあなたの命なんか惜しくないけどね、と突き放してみたのでしょう。だから、相手の返事はなかったわけです。この歌を、「惜しくもあるかな」という表現を真に受けて、「女の恋心の悲しさ」とか「未練断ちがたい女の愛の告白」などという理解もあるようですが、係助詞の「も」の働きから「惜しくもあらず」というニュアンスを汲み取って、宮廷女房のしたたかさを感得するべきじゃないのかと思います。


  忘らるる 身は惜しけれど 誓ひてし 人の命は 惜しからぬかな


実は、2011年のブログを見ても、この歌についての記事がまったく見当たりません。『百人一首』の37番歌のあとに、38番歌とパロディの歌を並べて紹介してあるんですが、次の日には39番歌を話題にしていて、飛ばしてしまったようです。よって、今回はアップデートではありません。

    

   

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