もぢり百人一首(37) アップデート版

 37 無風でも 玉と散りけり 秋の露 貫き留めよ 風の白糸


(通釈)秋の露が、風一つない穏やかな日なのに、あっけなく消えてしまった。そんなことなら、吹く風が白糸となって貫きとめるがいい。敵が襲来しなくても玉砕したことよ。それくらいなら敵の捕虜となって生き長らえなさいよ。


(語釈)〇無風……風がないこと。風速3メートル未満だと煙はなびかないそうだ。転じて、社会情勢や人間関係に影響するようなことがない状態をいう。〇玉と散り……あえなく消滅すること。戦争の際に玉砕することを「玉と散る」と表現することがある。「玉砕」は「全滅」という言葉を回避したもの。


(本歌)白露に 風のふきしく 秋の野は 貫きとめぬ 玉ぞ散りける

   (『後撰集』巻第六 秋中 308番 文屋朝康「延喜の御時、歌召しければ」)


本歌の作者は文屋朝康であります。そう言えば、この方も親子で『百人一首』に入っているんですが、第22番の文屋康秀の歌が実はこちらのご子息の方の歌であるというような疑義があるんでありました。それでもって、今度はこちらの歌が『後撰集』に入ることは入っているんですが、その詞書きが間違っているらしいのであります。つまり、そこには延喜年間に詠んだというような説明があるのに、どうもこの歌は寛平年間の歌ではないかと言うことで、別に朝康の歌であることまでは疑っていないのですが、『百人一首』というものを出典のレベルまで掘り下げると、安心できないという感じが漂うのでありますね。


それだけではなくて、従来の解釈に対しても疑惑があるんであります。念のため、岩波書店刊行の新日本古典文学大系の『後撰集』から引用してみますが、片桐洋一先生が校注を施した本でありまして、凡例と言うところには、底本は、藤原定家天福二年書写本を江戸時代に透写したものを用いているそうです。透写ってどういうことか私には分かりませんが、そのままトレースしたってことなのでしょうね。へーえ。


     (延喜御時、歌召しければ)  文室朝康

   白露に 風の吹敷 秋のゝは つらぬきとめぬ 玉ぞちりける


注目は二句目のところの「風の吹敷」でありまして、動詞の送りがながないわけですが、これを片桐洋一先生がどう詠んでいるかというと、傍らに括弧付きの読み仮名で(ふきしく)とされているのであります。それでいいわけで、秋の野原の植物に付いた白露を風が吹いて敷いているんでありますね。だから、草の根本のところまでは見えないわけですが、玉が敷き詰められるように白露が落ちて散っているってことですよね。宮中などの玉を敷いた庭を見慣れた目には、現実にはあり得ない白露の玉が敷き詰められた秋の野が見えて、なんともロマンチックな光景が意識の中に展開するのであります。


以上のような解釈を、たとえば学校のレポートなりに書いたら、あなたは減点されますがよろしいか?


どこが駄目なのかというと、もちろん二句目のところの解釈がペケなんですね。片桐洋一先生によると、「○吹敷 吹き頻る。頻りに吹く」となるのでありまして、よく見ると、語句の表示が「吹敷」と出しておいて、訳はまったく違う動詞を用いて済ましているんですね。一瞬何かの錯覚かと思いきや、やはりどう見ても漢字表記が違うのであります。つんと澄まして、なんて杜撰なことをなさるのでしょう。しかし、これが『後撰集』やら『百人一首』における解釈なのであります。「しく」を「頻りに~する」と取るそうなのであります。例外は一つも見当たりませんし、みんな結託したかのようにそう解釈するのですよ。変だなあ。まず天福二年書写の定家本の表記を無視していますよね。片桐洋一先生ご本人がこの注釈書の記載を自分で今見たら、何とおっしゃるんでありましょう。言い逃れできませんよね。めちゃくちゃでありますよ。


そして、いつもの如く『日本国語大辞典』(第二版)を見てみると、「頻りに~する」という補助動詞に使われる「しく」は、動詞としては確かにあるんですが、それは古い用例が出ていて、かつ「波がしく」というような用例が突出するようで、そんな物をここで持ち出す必要がないのであります。「しく」と言う動詞で目立つのは、やはり「敷く・舗く」という用例でありまして、こんなポピュラーな日本語をここに適用しないで、あるかないか分からない動詞の解釈を持ち込むのはどうしてなのでありましょうか。それも、そろいも揃って右倣えをしているのであります。だとしたら、「玉」を風が吹き「敷く」という縁語の指摘は、これはとてつもない大手柄のはずであります。


やはり、なんていったって「吹き敷く」が正解でありまして、それは「玉」という言葉と関連するからで有りましょう。


そうすると、「白露に」の「に」という助詞が問題なのでしょうけれども、現在『百人一首」の善本の一つである、宮内庁書陵部蔵堯孝本を、笠間書院刊の影印で示すと、あらあら「しら露を」とありまして、まったく「吹き敷く」で問題がなくなってしまうんであります。ただし、「敷く」が動詞だとすると、「白露を敷く」がよくて、「白露に敷く」が変であると言うだけで、「敷く」が補助動詞なら、「白露に吹き敷く」でも何の問題もありませんよ。関係ないかも知れないが、「頻りに~する」の意味の「しく」にどうしてもこだわるなら、「~しきる」という現代語の補助動詞を考えるといいんですが、「降りしきる」とは言えても、残念ながら現代語で「吹きしきる」はあまり耳慣れない気がいたしませんか。「吹きつのる」「吹き荒れる」「吹きすさぶ」「吹き払う」などとは言いますが、「吹きしきる」は聞いたことがなさそうです。



昔の写本だって、その気になれば一部の平仮名を除いて読めてしまいます。


このあたりのところに、何かありそうですが、『日本国語大辞典』(小学館)の「しきる」や「しく」を担当した方は、ひょっとすると何かに気が付いていたのではないかなと思わせる物があります。少なくとも、「頻りに~する」という意味の「しく」のところには、この歌を掲示しないで済ませています。ははーん。つまり従来の説が危ないと見た可能性はありそうでありますね。ともかく、天福二年本を考えると、藤原定家の理解はどうやら「吹き敷く」ではないのでありましょうか。きっと、何か決定的な物があって皆さん口裏を合わせていらっしゃるようでありますから、それが分かったら報告すると言うことでよろしいでしょうか。


実は小学館から出ている辞書に『古語大辞典』という、一冊物の巨大な古語辞典がありまして、同じ小学館からでている『日本国語大辞典』を頻りに利用するものですから、あまり利用していないのであります。今日ふと出先の暇な時間に目に付きましたので、パラパラとめくってみましたら、面白いことに気が付いたのです。これの監修者は中田祝夫さんでありまして、非常に力のこもった辞書でありますが、文屋朝康の歌の二句目に出て来ております「ふきしく」の周辺を調べてみると、「降り敷く」「降り頻く」は、両方ありまして、それなのに「吹き頻く」しかないのであります。つまり「吹き敷く」がないわけで、このアンバランスが気になります。しかし「降り敷く」があるのであれば、当然の如く「吹き敷く」があってよいわけで、ますます「吹き敷く」という解釈を押してみたくなりますね。


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