もぢり百人一首(34) アップデート版

 34 高砂の 松も老いては 友とせむ 誰も知らない 海のイルカは


(通釈)誰も知らない南の海のイルカは、誰か知らない寂しい少女のために花束を持った少年を背に乗せて出現するというのでありますが、それを信じて待ちぼうけを食った彼女はさすがに老婆になりました。それでも巡り合えたなら、喜んでイルカが友人となるでしょう。めでたしめでたし。


(語釈)〇高砂……地名としては播磨の国の歌枕。瀬戸内海に注ぐ加古川の河口ふきんの砂の丘陵地帯。転じて「高砂の」は「松」「尾上」を導く枕詞として和歌に使われた。〇松……ここは「待つ」を掛け、理想の恋人を待ち焦がれて婚期を逃した女性を暗示する。〇イルカ……哺乳類偶蹄目に属するクジラ類の内、小型のものを言う。イルカとクジラの分類は明確ではないが、英語においてもDolphinとWhaleのように区別する。日本人は蝶と蛾を区別するし、英語でもButterflyとMothのように表現に違いがあるが、明確な区分がないのと似ているだろう。なお、「イルカに乗った少年」は城みちるが歌ったアイドル歌謡で、「誰も知らない南の海からイルカに乗った少年がやって来た」という歌詞で始まる。寂しい孤独な少女の心を鷲掴みにするような秀逸な歌詞は、杉さとみによるもの。


(本歌)誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに

    (『古今集』巻第十七・雑上 99番 藤原興風「題しらず」)


もう、次から次と『百人一首』に突っ込みどころを見付けて興奮してしまって、鼻血が出そうでありますが、そうなる前に止めましょう。冗談もほどほどがいいのでありまして、真に受ける人が出ると困りますよね。しかし、初心者でない方は、案外的を突いていることがあるんで、びっくりなさるんじゃありませんか。準備しないでこれですから、真剣にやったら、何が出て来るんでしょうね。わかりませんよね。さて、ここで取り上げる歌は、孤独を嘆いた歌でありますが、心配には及びません。この世に産声を上げて生まれた時も、知っている人なんていなかったわけですから、本人が気付かなかっただけで、死ぬまでずっと孤独だったかも知れませんね。


角川ソフィア文庫に入っている『新版百人一首』(島津忠夫さん)をみると、異説はあるが鑑賞には問題にならないというようなまとめがしてありまして、そうかそうかと納得しようとして、まったく納得できなくなってしまいました。むしろ、もとの歌の見かけの簡単さに比べて、諸説紛々、こんな地味な歌なのにおさまりが付かないのを、島津先生はめんどくさいと思って切り捨てようとなさったみたいであります。念のため、片桐洋一さんの『古今和歌集全評釈』を見てみたら、これは『百人一首』の注釈書とはかけ離れた解釈がなされていますので、諸説を整理して分類しているだけで日が暮れるのは間違いないんですね。私はもう大人ですから、いろんな免疫がありますので、そう簡単には言いくるめられない所があるわけです。ほんとはみなさん、持てあましていらっしゃるようなのであります。

まず「かも」が分かりませんよ。あやしい。それから「ならなくに」のところの語法が、どうもこの歌の場合だと収まりが悪いんですね。「なくに」は倒置しそうで倒置しないような、妙な具合がありますので、お困りのようなのであります。この語法というのは、問題がいろいろあるんですが、『日本国語大辞典』を見ると、逆接で「~のに、まして」の意味ですよと、この歌を取り上げてわざわざ補足しております。異例中の異例ですが、それをご存じない注釈者もいるようで、無知なのか反発しているのか、謎でありますね。この歌の面白さは、松を昔の友じゃないと否定しているのに、結局松だけが友達ということでしょうか。

   誰をかも 知る人にせむ 武蔵野の サツキも昔の 友ならなくに

   (粗忽「東日本大震災の頃、武蔵野の家を借りて住みたりしに、広くもなき庭の中央にサツキの茂み、元の住人によりて見事に作りなせるを、咲く季節ごとにめでたれど、ある時ふと思ひて」) 

もしかしたら、『古今集』の時代としては、「かも」とか「なくに」という語法が古いのではないでしょうか。つまり、なんとなくお爺さんの口ぶりなんでありましょう。そうすると、昔から生えている松とどっちが古いというようなことになりまして、別に私は「高砂の松」と馴染みではないですよ、というような軽口でありまして、これを痛切な孤独を詠んだ歌であると鑑賞するのは、『百人一首』というものを何か立派なものにしたいという圧力が感じられますね。この歌の場合は、安易な感傷に流れずに、松では話し相手にはならないね、と若い人をつかまえて軽口を言っている雰囲気がするんであります。ぼけていないお爺さんでありますから、私がお相手つかまつりましょうと名乗り出る若い人もいるでしょう。

なお、冒頭のパロディは、こじつけて訳しただけです。作った本人にも今となっては意味不明であります。歌謡曲は、恋にあこがれるローティーンをターゲットにした歌で、歌ったアイドルのビジュアルや衣装がインパクトの大きなものでした。

  908 かくしつつ 世をや尽くさむ 高砂の 尾上に立てる 松ならなくに(詠み人知らず「題知らず」)
  909 誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに(藤原興風「題知らず」)

『古今集』の配列を見たら、ひとつ前の歌と興風の歌はセットと見たほうがよさそうであります。「こうして無為徒食のまま残りの人生を終えるのだろうか。高砂の尾上に立っている松でもないのに」というのが908番の歌の意味でありまして、松は孤独な老人の象徴のような扱いなのであります。これに対して、興風の歌は「高砂の(尾上の)松だって旧友なんかじゃないので、誰も知人になんかなりようもないよ」と混ぜ返しているのであります。長生きした老人に、「長生きしてすごいですね」と言うと、「知り合いはみんな死んで、長生きするんじゃなかった」なんて言われたなどという話が、世間にはまことしやかに存在しますけれど、それに近い老境の吐露ではあります。しかし、老松を巡って、老人の毒の吐き合をするというのは面白いのではありませんか。



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