もぢり百人一首(32) アップデート版
32 しがらみは 流れぬ紅葉 春までに そりやああへなく 消えてけるかな
(通釈)この清らかな流れが、誰かが設けたしがらみのために堰き止められているよと思ってよく見たら、散りに散って水面を覆い尽くした紅葉が溜まってできた何ともきれいな天然のしがらみだったよ。だとすれば、わざわざ手を掛けて撤去しなくても、春までにはあっけなく消えてしまうことだなあ。
(語釈)〇しがらみ……人間関係の中で生じたやっかいな関係で、人の気持ちや行動を制限するもの。本来は、木や竹などを組み合わせて、水の流れを抑制し、時には不要なものを留める造作。〇そりやあ……「そりゃあ」と読むが「それは」の転じた表現で、ここは「それでは・それだと」の意。〇あへなく……こらえきれず、あっけなくの意。〇てける……完了の助動詞「つ」の連用形に、過去の助動詞「けり」の連体形が付いたものだが、ここでの意味は「完了+過去」ではない。「て」は「これから起きるぞ、起きるぞ」と強調する強意・確述の用法で、「ける」は発見・気付きを表す詠嘆の用法。古典文法はむずかしい。
(本歌)山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり
(『古今集』巻第五・秋下 303番 春道列樹「志賀の山ごえにてよめる)
「しがらみ」という言葉のニュアンスが、今現在使われるものと違うところが、面白く感じる歌であります。本来はそういうものでしょうが、我々は憂き世のしがらみにがんじがらめでありまして、好きなことを言ったり、好きなことだけをしていたり出来ないのであります。好きだったものがノルマになたったら重たいわけで、遊びが遊びでない、息抜きが息抜きでないこともあるわけです。このブログは、どうなんでありましょう。好きなことを好きなようにしていたら、暴れ馬でありまして、近代短歌における正岡子規さんは、古典の和歌を蹴散らす暴れ馬であったのでしょうか。
「しがらみ」というのは、漢字で書くと「柵」でありまして、柵(さく)のことなんでありますが、水量調節のために杭を打ち込みこれに竹や柴を絡めたものであると言う説明が『日本国語大辞典』に出ておりました。さて、実際に見たことがあるかというと、とんと記憶にありませんから、グーグルで映像検索するんですが、はかばかしくないのであります。斜面などの土留めのために用意されたものが出て来るだけで、川の映像がないのでありますね。今時は中小河川でも大がかりな護岸工事などをしまして、水門などで水流を管理しますから、人が打ち据えた杭や、それに巻き付けた竹などで柵を用意することは無いとも言えましょうね。田んぼの用水路の水量調節というものは、子供時代に見慣れていまして、それはそれ、これはこれ、また違うものであります。ちなみに、川遊びの体験から言うと、石を積み上げても水量は調節できるんでありまして、20分もせっせと積み上げれば、子供が泳ぐくらいの深みを作ることは簡単であります。水は方円の器に従うものでありまして、たとえばこの歌のように紅葉が積もっただけでも、水流は変化するのであります。
山川に 流れもあへぬ もみぢ葉は 風のかけたる しがらみと見る(粗忽)
「AはBなりけり」、という提題と解答でありますが、実は認識のあり方が入れ替わっているのであります。山川を見てそこに人工物である柵を見付け、よく見て見たら紅葉じゃないかという春道列樹は、いささかインチキ臭いのでありまして、本来は風に吹かれて谷間に吹きだまり、水流を滞らせている紅葉を見付けたのでありましょう。それを、天然の柵であると認識したのだと思いますがいかがでしょうか。そうすると、実は面白くも何ともないわけで、それをひっくり返してみたら、なんだか面白く感じたわけですね。ひっくり返しただけで面白みを出した春道列樹のお手柄であります。詩というものは、人を刺激しないといけないわけで、この和歌は、その辺が微妙にうまいようであります。
【出題】 ( )ません、勝つまでは。……( )に適切な言葉を埋めなさい。ヒント・四文字。
そう言えば、読みかけて読まなかった本が、本棚の中に隠れておりました。非常に有名な本でありまして、これこそが近代短歌の幕開けを告げたものであると、文学史などでは高く評価されておりました。どうも、期待したのとは随分違っていて、そのまま閉じてしまったものであります。それの、「五たび歌よみに与ふる書」のところに、凡河内躬恒の歌が出てきまして、胸のすくような罵詈雑言が並べてあるんであります。すごい気迫でありまして、なんだかもったいないくらいなんですね。
『歌よみに与ふる書』(岩波クラッシクス)
著者は、正岡子規であります。私が持っているものは、昭和59年(1984)1月18日に発行されたもので、単行本の体裁になっているんであります。珍しく新本で買ったようでありまして、それなのに無視していたんですね。今読んでみたら面白いわけでありまして、正岡子規さんもお勉強の出来る人には違いがないので、どこかで通説をきかされて、白い霜のために白菊がどこにあるか分からないという解釈を押しつけられ、激怒しております。激怒しないで、解釈を自分ですればよかったんですね。「この躬恒の歌、百人一首にあれば誰も口ずさみ候へども、一文半のねうちも無之駄歌に御座候。この歌は嘘の趣向なり、初霜が置いた位で白菊が見えなくなる気遣無之候。趣向嘘なれば趣も糸瓜も有之不申、けだしそれはつまらぬ嘘なるからにつまらぬにて、上手な嘘は面白く候。」ということで、大伴家持の「鵲の」という百人一首の例の歌は誉めているんであります。好き嫌いをはっきり述べて、痛快この上ないんですね。そうか、古典が大好きだからこそ、あれだけ頑張ったんだと分かります。
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