もぢり百人一首(30) アップデート版

 30 有明で 振ると乗り物 無い別れ いいわよヘリに 乗つて帰るの


(通釈)東京ビッグサイトで開かれているコミックマーケットに来たけれど、一緒に来た彼と仲が悪くなって帰りは別々になってしまったわ。車に乗せられて来たので、私何で帰れば分からない。有明で男を振ると乗り物がない別れになるとは思わなかったの。いいわよヘリに乗って帰るから。パパに電話しなくっちゃ。


(語釈)〇有明……東京都江東区の町名。1931年から埋め立てられ、工業用地だったが、現在有明一丁目に9000人が住んでいる。東京臨海広域防災公園地内にヘリポートがある。なお、普通に利用ができるのは江東区新木場にある東京都東京ヘリポートである。ちなみに、現在の有明にはゆりかもめの駅が「有明」「有明テニスの森」「東京ビッグサイト」と三つあり、りんかい線の「国際展示場駅」もあるので、困ることは少ない。〇ヘリ……ヘリコプターのこと。翼を回転させることで揚力を得て空中を飛行する飛行機の一種。ウィキペディアの説明は専門的過ぎて理解不能。


有明のさき、新木場にある東京都東京ヘリポートから、ヘリコプターに乗ったことがあります。東京駅で、はとバスに予約をしまして、その日のうちに乗ることが出来たんですね。もう30年も前のことでありますが、鮮明に記憶しております。子育ての初めの頃でしたから、何でも経験させてやりたいと、発憤したんであります。ヘリコプターはうかつに近付いてはいけないのでありますね。乗車の順番が来て、わーいと近付いたら係員にものすごく叱られました。あれほど注意したのに、とお冠であります。実は、ヘリコプターの羽根は案外低い位置にありまして、普通に大人が近寄ると羽で人体が切れるらしいのであります。腰をかがめて真横からドアに近寄ること、というのが事前の注意でした。乗って見て分かったんですが、上空を飛ぶヘリコプターは、すごいスピードが出るものなのであります。乗ったことがなければ、のんびり空に浮かんでいると思うわけです。その時は、東海道新幹線と並走してくれました。知らない事は山ほど世の中にはあるわけで、ちょっとの体験が、ものすごい知識となって蓄積されるものなのであります。


(本歌) 有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし

    (『古今集』巻第十三・恋三 625番 壬生忠岑「題しらず」)


有名な歌であります。もうすでに鎌倉時代の初め、藤原定家の時代には異説がありまして、もめていたようなのでありますね。それはそうです。詠んだ本人だって、どこまで詠んだ歌の解釈ができるのかどうか。それがよまれて300年も経過した時代に取沙汰されても、議論が収束する気配はないことでしょう。自分の発言を、曲解されて困ることって、凡人である私は日常茶飯であります。総理大臣経験者や、党首経験者ですら、互いの発言を曲解して伝えますから混乱の極みでありますね。辞めるの辞めないの、言ったの言ってないの、真相は藪の中であります。先ほどの白菊の歌は、もう『顕注密勘』の段階から、解釈が私とは違っているようでありまして、注を付けたのだから実は分からなかったか、議論が当時もあったと言うことです。そんなものですよ。


「有明」という言葉を、どう理解するかによって、解釈が割れるわけです。もちろん、現代東京の湾岸の地名である有明でないことは間違いありません。だから、「有明で振ると乗り物無い別れいいわよヘリに乗って帰るの」という私の歌が、おふざけであるのは当然であります。ともかく、壬生忠岑の歌にある「有明」を勝手に整理すると、「有明」を「有明月」のこととするか、それとも有明月が空に掛かる時刻とするかによって解釈が割れるんであります。でもって、後者は不可であります。つまり有明月は、月の出が深夜、月の入りが翌朝でありまして、幅があるから、これを時刻を表す表現にすることは無理があるんですね。だいたい、和歌の中で「暁」って言ってますから、時刻はそちらで感知するわけです。

 

この歌が詠んでいるのは、恋というものの風情であり、遊びが本物の恋になった瞬間、あるいは恋に恋する子供が大人になった瞬間のはずであります。


また、「つれなく見え」たのは、有明月なのか、女の態度なのか、という問題も発生するそうですが、別れの暁がつらいんでありまして、女性はちっとも「つれなく」ないのでありましょう。もとの『古今集』では恋三の「逢わざる恋」の歌群に入っているんですが、もうちょっとだったとすれば、女の態度を「つれなく見え」たと考える必要はないのではありませんかね。作者は男ですが、詠作主体が女でも通用いたしますが、どうもそう言う指摘は従来ないようでありまして、どうして男の歌と固定したのでありましょうか。女性が男を送り出した後で、有明月を見ていてもいいはずでありますよ。女性の立場の歌の方が、むしろ、断然、自然ですね。それから、これを、永遠の別れを詠んだとする解説(ちくま文庫)もあるんですが、否定する根拠もない代わりに、肯定する気持ちにもなりません。たぶん、そんな劇的な恋の終末を詠んだ歌ではありますまい。駆け引きの恋の段階から、抜き差しならない深い恋情を感じる段階になりまして、切ない思いをかみしめたという所でありましょう。待つ宵のつらさから、別れの暁のつらさに身を焦がすようになりまして、そうなると恋は深みにはまったわけですね。詠作主体の男性なり女性が、相手を深く思う気持ちに溢れているという点で、恋の三に『古今集』では配置されたのでしょう。恋の終わりの歌だと思うのは勝手ですが、恋愛体験が浅いのではないかと心配になりますね。恋も深まると、デートの後のさよならが切なくなるはずなんですよ。そんなことも知らないで、和歌の注釈は無理ではないでしょうか? 常識を述べております。


   心あてに 折らばや折らむ はつ霜の 置きまどはせる しらぎくの花

     (『百人一首』第29番・凡河内躬恒)

   心あてに それかとぞ見る 白露の 光そへたる 夕顔の花

     (『源氏物語』夕顔巻・夕顔の女房?)


前回取り上げた歌のおさらいをしておきたいと思います。凡河内躬恒の歌を、紫式部が換骨奪胎いたしまして、印象的な夕顔の巻の歌に変えたのであります。こういうのを本歌取りというはずなんですが、本歌取りが意識的に詠まれたのは平安時代のお終いの頃から鎌倉時代に掛けての時期でありまして、藤原定家などが確立したやり方から見ると、夕顔の巻の歌が本歌取りに当たるのかどうか、私には判断できません。「心あてに」という初句が一緒でありますが、あとは二句切れであること、三句目と五句目に名詞が来るんですが、それらに共通点があるということでありまして、これだと類歌の域を出ないもののように感じます。それにしても、『源氏物語』の注釈書としてはポピュラーな小学館の日本古典文学全集(新編)の解釈は野放図すぎて、まったく納得行きませんね。それなりの積み重ねのあるもののはずですから、異を唱えるにはためらいが生じますが、「見る」の主体を夕顔という女性の側にしているのは完全な過ちでありましょう。もらった歌に対する光源氏の返歌も紹介すると、その辺がよく分かります。


    寄りてこそ それかとも見め たそがれに ほのぼの見つる 花の夕顔

       (『源氏物語』夕顔巻・光源氏)


これも、何度も繰り返し唱えていると、二句切れ倒置法が修正されまして、語順がまともな状態に収まる瞬間があるわけであります。「たそがれにほのぼの見つる花の夕顔」(を)「寄りてこそそれかとも見め」となりますから、「今度立ち寄るよ、見に来るよ」と最大限の色よい返事をしたわけであります。贈答歌というのはリフレインが基本ですから、「夕顔の花をそれかとご覧ですね」と言われて、「今度は夕顔の花をよく見るよ」と返したわけです。句切れのある歌の場合には、倒置されていることが普通ですから、そうした原則を無視して意訳してしまったんでは、もはや歌などと言うものは解釈不能でありましょう。不思議なことが、世の中にはあるものですね。


昔聞いた、誤りをわざと忍び込ませるという手法があるのです。


吉田精一さんという研究者がおりまして、その方が詳細な近代文学の年表をこしらえた時の話だそうです。ぜったいにその業績が盗まれると確信していた吉田精一さんは、存在しない作者のありもしない作品を年表の中に忍び込ませまして、ちゃっかり引用した不届き者をあぶり出す方策にしたそうであります。そういう知恵というものも、秘伝として伝えられるものでありますから、和歌の解釈の誤りというものも、実はわざとこしらえて広めたものなのかもしれないのであります。ちゃんとした人に習ったら、ああそれはね本当はこれこれこうなの、当たり前でしょ、通説は嘘っぱちだからね、などと教えてもらえるのでありましょう。

  証拠になる歌なんていくらでも捏造できてしまうのです。

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