29 心当てに 折らばや白き 菊の花 隠岐の帝に たてまつるため
(通釈)隠岐には今日のような白菊があるかしら。気の毒にも隠岐に流された後鳥羽院に差し上げるため、どうせ折るなら白い菊の花をどれでもいいからなるべくいいのを折りたいと思います。
(語釈)〇心当て……当て推量のことだと解する言葉で、現代でも使うくらい、息の長い日本語である。だが、ここでは「どれでもいいからなるべくいいのを」という意味で使った。つまり「心任せ」「好きなように」の意である。〇折らばや……「折りたい」の意。ここで切れて、倒置法となる。「白き菊の花」を「心当てに折らばや」となり、さらに下二句が倒置となる。〇菊の花……菊は中国渡来の植物である。その育成方法は秘伝とされたほどで、菊の花はどこにでもあるものではなかった。晩秋に枯れた後も平安時代には見るべき花がなかったので、枯れた白菊を紫色であると言って賞美した。菊は立ち枯れをしてドライフラワーのようになる。〇隠岐の帝……隠岐は流刑の地であり、小野篁が平安時代に流され、鎌倉時代には後鳥羽院が承久の乱後に流された。のちには後醍醐天皇も同じ憂き目にあっている。
(本歌) 心あてに 折らばや折らむ はつ霜の 置きまどはせる しらぎくの花
(『古今集』巻第五・秋下・277番 凡河内躬恒「白菊をよめる」)
そうそう、この歌を大学時代の初めての専門科目で割り当てられまして、調べても意味が分からず困り切ったのであります。ピンと来ないわけです。和歌を研究しようなどと言うことは考えたこともありませんでしたから、本当に途方に暮れた記憶があります。別にその授業をきっかけに和歌に打ち込んだなどと言う美談があるわけではありません。今でも苦い思い出があるだけで、さてその授業の結論がどの辺にたどり着いたのか、とんと記憶にないのであります。担当の教授というのは、ある意味有名な方でありまして、結婚にまつわる戦時中の話というのがあるんですが、それはそれで大昔に話題になったことがあるものらしいのですが、ここで取り上げるほどには詳しく知らないのであります。でも、ラブラブの不倫話であります。
問題は、二句目の解釈。それから、「置きまどはせる」の部分の解釈でありましょう。
何となく波乱の予感がいたしますね。つまり、『百人一首』の側からも『古今集』の側からも、解釈が定まっているようでありまして、霜と菊がどちらも白くて紛らわしいから、ちゃんと折れるか知らん、というような解釈をしているんであります。そんな馬鹿なことがあるものか、というのは古典の和歌を否定する方面から出ていたような気がするんですが、そういきり立つ前に解釈が間違っている可能性もあると考えていたら、近代短歌の方向はまた別の展開をしたんでありましょうか。ともかく、『百人一首』6番歌、大伴家持のところで、カササギと霜の関係がどうも間違ってきたようだと言いましたので、その流れを貫徹すると、瓢箪から駒が出てきかねないのであります。なぜならば、現代においては「霜が置く」というようなことは言わない訳でありまして、「霜は付く」もの、「霜柱は立つ」ものでありますから、我々は昔の言い回しを誤解するんであります。
「霜が菊に置く」という表現を「霜が菊に降りる」という内容だと呑み込めないと、話は混乱するんです。「霜が置く菊」となってもまったく状況は変わらないわけで、これを「霜が降りる菊」以外の表現だと誤解するなら、もはや従来の誤解の範囲から抜け出ることはできません。「霜が菊を置く」という表現ではないのであります。きっと、「霜が菊をどこかに何かして置く」という理解から、この歌の誤解は始まったのでありましょう。自然現象を表す「霜が置く」という表現が廃れれば、もはや凡河内躬恒の歌は解釈が迷走して当然だったのであります。
同じことは「まどはせる」の部分にも言えまして、これはもちろん「誰かを惑わせる」という現代語ではないわけで、「る」は完了の助動詞の「り」というものの連体形のはずなのであります。だから、完了の助動詞「り」をもっとポピュラーな完了の助動詞「たり」を使って書き換えると、四句目は「まどはし・たる」となるものなのであります。正しく「まどはせ・る」と品詞分解したとして、すんなり通じますでしょうか。よっぽど古典を勉強した人でも、しくじる所のはずです。ともかく、下三句を現代語訳すると、「初霜が置きまどわしている白菊の花」ということになるわけです。「る」が「ている」という訳に化けるところがポイントでありましょう。この「り」という助動詞を、学校では完了または存続の助動詞と教えるんですが、ここは完了とか存続ではなくて、初霜が植物の菊を変化させている状態を表しています。「初霜が菊にひどく降りている」ってことです。「初霜が菊にひどく降りた」でも別にかまいません。現代語の「た」は状態を表す時もあるんですよ。
さて、結論として、霜と菊が見分けられないなどと言うことは、まともな感覚の人だったらありませんよね。太陽光線の下で、普通の視力の人が見間違えたら大変だ。そうすると、これって……。
菊というのは、梅と並んで、中国から渡来した植物であります。だから、漢字の「菊」も「梅」も、どちらも日本語ではないのであります。もっといえば「キク」と「ウメ」も今でこそ日本語ですが、もともと中国語の漢字の音がなまったものであります。中国語をそのまま取り込んでいるんですね。それにしても、今時の鉢植えの菊というのは大輪の場合がありますけれども、この歌の白菊はどうなんでありましょう。菊人形に使うような菊というのは、それほど大きなものではなく、中央が黄色いものが普通でありましょうか。ウィキペディアを見ましたら、断然観賞用のものを紹介したくてうずうずしているわけで、植物としての解説が乏しいのであります。がぜんファイトが湧いて参りました。
和歌だから霜と菊が見分けられなくていいと思いますか? そんなに非常識なものなの?、韻文というか和歌というか文学というものは。
どうも従来の注釈が誤っているのではないかと、直感的に思うわけですね。理解できていたら、注釈なんて必要ないわけで、分からないからあれこれ詮索をするわけです。自信たっぷりに注釈してある時ほど、眉につばをしてその言説の裏を見て行くわけですね。注釈が自信満々なのは、実は恐怖とか不安とか、そういう怯えの裏返しと取るわけです。出て来る単語を辞書で引きますと、実は凡河内躬恒のこの歌が出て来るケースが多いんですね。おかしいんですよ。この歌は『古今集』の歌ですけれども、もっと普通の歌を例示すればいいのに、わざわざこの歌であるのは、実は突飛な解釈をするものだから、項目を余計に立てている可能性があるんですね。だから、辞書を見てこの歌が出ていると安心するのは高校生でありまして、大人は嫌な予感がするはずなのであります。つまり、『百人一首』の歌の解釈に引きずられて、辞書の記述が為されている可能性があるんです。「当て推量」と訳して平気な「心あて」がそうでありますし、「まどはす」のところもそうなんです。『岩波古語辞典』は、動詞を連用形で表示しますから、「まどはし」というところに、この歌が例示されておりますよ。話を簡単にするために、歌を二首紹介して、言いたいことだけ言うことにいたします。
散りぬれば 恋ふれどしるし なき物を けふこそ桜 折らば折りてめ
(『古今集』巻第二・春上 64番 詠み人知らず「題しらず」)
一目瞭然の歌ですね。散る前に折るぞというわけで、じゃあ折って何するの?って言ったら、好きな人に折った桜とこの歌を届けるんですね。そうすると、季節の歌ではありますが、いきなり恋の歌になりまして、今夜は君を離さないというような、恋愛宣言になるわけです。花が駄目になる前に手折るということは、旬の時期を逃さないということでもありますから、相手はいま妙齢で美しいと言う賞讃でもあります。凡河内躬恒の歌が、この桜の歌と同じであることを否定する人はよもやいないと思いますが、いるならかがんできなさい。平身低頭するように。って冗談ですから真に受けないように。ともかく、この歌を示されたら、反論できません。『新版百人一首』(島津忠夫さん)の指摘によって知りましたが、これによって二句目の解釈は確定しますよね。「折るなら折ろう」と決意を表明していることになるでしょう。恋愛の贈答歌の習慣を前提にしないと、何のために折るのかぼやけます。
心あてに それかとぞ見る 白露の 光そへたる 夕顔の花
(『源氏物語』夕顔巻・夕顔の女房?)
これは、どう見ても凡河内躬恒の歌を下敷きにした物に見えるわけでありまして、そのことは小学館の新古典全集などでも、当然の如く指摘してあります。初句、三句、末句の配置がまったく同じで、ある意味お手軽な挨拶の歌として夕顔という女性の登場を演出しているわけでありまして、もちろん夕顔の花が新登場の女性である夕顔を指すのであります。
しかし、ぎょっとしたのは、注釈書の解釈が間違っているようなのでありまして、……そんなことあるかいな、と思いながら苦笑いする次第ですね。あきれてしまいます。この歌は、もちろん二句切れ倒置法ですから、繰り返し詠むと上下が反転するはずで、そうすると「白露の光そへたる夕顔の花」(を)「心あてにそれかとぞ見る」となりますよね。夕顔の花は、「夕顔」とあだ名される女性の比喩なら、「見る」の主体は光源氏になるわけで、出会いの場面に重なります。病気の乳母を見舞いに来た光源氏が、五条に住む女性に目を付けるところですが、女の家から扇が送られて、そこに書いてあった歌であります。だから、「見る」は「ご覧になる」ということで、「夕顔の花をご覧になる」と考えるといいわけです。注釈書はそうなっていないが、『源氏物語湖月抄』からして違うから、ため息が出て参ります。『源氏物語』の関係者の方、この歌の解釈、間違ってますからね。直しておいて下さいね(笑)。「初霜の置きまどはせる白菊の花」(を)「心当てに折らばや折らむ」を参考にみたら、倒置を修正するだけで解釈が出来るんです。簡単なのに、倒置しているのを元に戻すことすらしていないんでしょうか。たぶん、してないですよ。反論するなら、どこからでもかがんできなさい。頭を垂れて、物を言うように。
どこからでもかがんできなさい。
(『御教訓カレンダー2011』・なんか裕三さん)
面白いんであります。6月3日から5日までのところにあった御教訓なわけで、分かんない人のために言うと「どこからでもかかってきなさい」というのは、何となくアントニオ猪木さんの台詞のような感じですが、要するに慇懃丁寧に言っているようで、必ず潰してあげると言うような脅しの言葉であります。でも、アントニオ猪木さんに関するウィキペディアを見ても出てきませんね。耳慣れたフレーズですが、はてさて、どこから出てきたのでしょう。ともかく、何が面白いのかというと、「掛かってこい」と言うのは、最も得意とする技で来いと言うことですが、「かがんでこい」となると相当動きに制約が出てしまいますね。「どうもどうもと屈んでこい」ということですから、笑います。うまいな。
仕上げは、「置きまどはせる」の解釈。主語は「初霜」、「惑わす」対象は白菊の花。人ではあるまい。
確認しますと、「霜が置く」というのは単なる自然現象であります。「まどはす」に「り」という助動詞が付くと「まどはせり」となりまして、「惑わしている」「惑わした」という意味なんですね。現代語のままの感覚を持ち込むと、「置きまどはせる」と言うのが、まるで人を惑わしているかのように感じられるんでしょうが、ここは人は関係ないんですよ。よろしいですか、勝手に何かが人をまどわそうとしていると決めつけないようにするのが、大切です。これは「初霜が置いて惑わした白菊の花」と言っているだけで、自然現象を巧みに表現しているだけです。さらに、ここには第三者である人は関係しないのであります。あくまで「霜が菊に作用した」だけなのですよ。
「人を惑わせる」も「人を惑わす」も間違いってことでよろしいか。
あくまでも、初霜が降りた時に、白菊の花に何らかの乱れが生じたんですね。人が、霜と菊が区別が付かないなどという錯乱状態を語るものではありません。霜と菊が区別が付かなかったら、折り取るのは無理ですから、眼科に駆け込んで下さいね。そこのところ、しっかり受け止めるんですよ。普通に考えたら、霜に当たってしおれるとか、茶色く変色するんですよ。霜枯れするかもと思ったんですね。さあ、それでも大変だ。きれいだと思っていたら、白菊が駄目になりそうですから、手当たり次第、当たるを幸い、手許の花から「心あてに折らばや折らん」という、大慌てになるんではないでしょうか。だから、折って女性に贈るんです。
さて、さて、大変なことになりました。大手柄とふざけるどころではない。これは、これは瓢箪から駒。
つまり、女性を白菊の花にたとえます。霜が置くというのは時間の推移、忍び寄る老いという物でありましょう。それが、一点の曇りもない意中の女性の美貌を脅かすのではないか、いま物にしようか、明日物にしようかと悩んでいたわけですが、もう待てない、初霜が彼女の美貌を置きまどはしたやもしれぬ今は、一刻の猶予もなく、かねての心当たりに従って、いざいざ彼女の住む邸内に忍び込み、あわよくば愛する人の寝室へと参上つかまつろうというような歌なのではありませんかね。ここにあるのは、初霜が置くように、私が……、というような緊迫した状況でありますね。
『古今集』の春の歌と、『源氏物語』夕顔巻の歌で解決してしまいそうであります。というか、解決いたしました。
ついでに、『源氏物語』の有名な歌の解釈まで、誤謬訂正に力を貸しましたぞ。まあ、何かの勘違いには違いありませんから、ご意見頂戴するまでもありません。2011年のある日思いついて、翌日書いてみたんですから、当てずっぽうであります。勢いだけです。でも、盗んじゃ駄目よ。2022年現在でも、この解釈はかなり正しそうであります。
276 秋の菊 にほふかぎりは かざしてむ 花より先と 知らぬ我が身を
277 心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花
278 色変はる 秋の菊をば 一年に ふたたびにほふ 花とこそ見れ
それはともかく、『古今集』の配列を見たら、次の歌から、菊の変色の歌でありますからね。だったらこの歌も、白菊の変色の歌でありましょうね。現代日本の関東以西の方は、おおむね都会に住んでおられますから、霜が降りることが実はよく分からないことでありましょう。東京以西は、実は霜なんか降りるのをそうそう見る機会はないはずなんですね。やむを得ませんね。
それから、この凡河内躬恒の歌を貶したのは正岡子規だったはずですけれども、あの人もある意味秀才ですから、習った通りの歌だと思っていて、この歌を下らないと断じたのでありましょう。ここで施したような歌だよと教えたら、喜ぶのか、それとも激烈に怒って否定するのか。おたのしみでありましょう。下に引用しておきましょう。
「五たび歌よみに与ふる書」(正岡子規)(明治三十一年二月二十三日)
この躬恒の歌、百人一首にあれば誰も口ずさみ候へども、一文半文のねうちも無之駄歌に御座候。……今朝は霜がふつて白菊が見えんなどと、真面目らしく人を欺く仰山的の嘘は極めて殺風景に御座候。……
(『青空文庫』から抜粋)
心当てに 誉めばや誉めむ 子規さまの 心惑はす 白菊の歌(粗忽)
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