もぢり百人一首(16) アップデート版

16 因幡の山 まつとし聞かば 立ち出でず 毎日見ねば さびしかるべし


(通釈)因幡の国の国府の館から見えるという因幡の山、その因幡の国にもし行くとしたなら、因幡山の松ではないが、誰かが私の帰りを京で待つなんて聞かされたら、とてもじゃないが出かける気にもならない。何となれば、因幡山の峰ならぬ、私を慕う人を毎日そばに置いて見ないと、きっと寂しいはずだから。


(語釈)○因幡の山……因幡の国の国府の東に位置する山。稲葉山とも。因幡の国守になった人物としては、天平宝字2年(758)に任官した大伴家持、斉衡2年(855)に任官した在原行平、元暦元年(1184)に任官した大江広元などがいる。ここは、「因幡」に「往な」を掛ける。○まつ……「待つ」に「松」を掛ける。○見ね……「見ね」に「峰」を掛ける。


(本歌)立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む

  (『古今集』巻第8・離別歌・365 在原行平朝臣「題知らず」)


本歌は割と調子のいい歌であって、耳にしてもすんなりと入って来るし、唱えてもすらすら読める。日本語としても安定感のある言葉で構成されていると言えよう。掛詞もさほど気にならない。行平が因幡の国守として赴任するときの歌なら、斉衡2年(855)の前年くらいの歌と言うことになるのである。行平は弘仁9年(818)に生まれ、平城天皇の第一皇子であった阿保親王の子供である。在原業平の異母兄弟ということになる。在原姓の一族の中では順調に出世した人物であり、貞観15年(873)には大宰権帥になり、元慶6年(882)には中納言に至っている。寛平5年(893)に75歳で亡くなっている。非常によくできる 官僚であったというが、須磨に流されたこともあって、この点『源氏物語』光源氏のモデルでもある。須磨で行平鍋を考案したという話もあり、また対馬を日本に帰属させたという功績もあったらしい。本歌は、通常は「因幡」と「往なば」、「松」と「待つ」の掛詞を含むものとするが、「峰」のところに「見ね」が掛かるとする注釈はない。パロディは、その「見ね」に「峰」を掛けて遊んでみた。余計なことを言うなら、「因幡」のところに「往なば」が掛けてあるとするのは疑わしく、むしろ「立ち別れ」の部分が「立ち分かれ」と言うに過ぎず、松の枝分かれの状態を言うのかもしれない。双子の松とか二本松とか言う、いわゆるランドマークになりやすい奇形の松であるなら、「立ち分かれ因幡の山の峰に生ふる」の部分は「待つ」を導く、長々とした序詞としてすんなり頭に入るのではないか。「往なば」を掛けるのは相当の無理があると見てよいだろう。いかが。


百歩譲ると、序詞の上三句「立ち分かれ」「因幡」「峰」の部分に、「立ち別れ」「往なば」「見ね」を匂わせて、「松」と「待つ」の掛詞を成立させている遊びに満ちた歌と言えばいいのかと思うのですが、どうでしょう。

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