もぢり百人一首(11) アップデート版
11 漕ぎ出でぬは 人には告ぐな 海人の舟 ただ乗せられて 目指す隠岐国
(わたの原 もろこしかけて 漕ぎ出でずと 院には告ぐな 遣唐大使)
(通釈)私は都の貴族であるからして、自分で舟を漕ぐなんてするわけもない。よって自分で漕いで舟を出していないことは、誰にも教えてくれるな。船頭の操る舟にただ乗せられて、目指すは唐ではなくて、流刑の地隠岐の国であるよ。
(語釈)○海人……漁師。ここでは、流刑の人を刑地に運ぶために雇われて、舟を漕いでいる人を言う。○隠岐国……現在は島根県。日本海に浮かぶ諸島だが、かつては山陰道の一国。小野篁はここに承和五年(838)に流されている。
(別案・通釈)えええっ、乗ろうとした船がぼろ船だから、こっちにおいらに乗れって言うんですが、藤原常嗣さま。遣唐大使のあんたがいい船に乗って、遣唐副使の俺らが沈むかもしれないぼろ船ですか。行きませんよ、私は。いやだいやだ、俺らはまっぴらだ。でもって、大海を唐を目指して出港しなかったってことは、嵯峨院には言わないでくださいまし。
(別案・語釈)○わたの原……広い海原。○院……小野篁が出航を拒否したのは昭和元年(834)のことであるが、この時の天皇は仁明天皇。小野篁とかかわりのある嵯峨天皇は上皇であった。○遣唐大使……この時は藤原常嗣。
(本歌)わたの原 八十島かけて 漕ぎ出ぬと 人には告げよ 海人の釣舟
(『古今集』巻第九・羇旅歌・407番
「隠岐国に流されける時に、舟に乗りて出で立つとて、
京なる人のもとに遣はしける 小野篁朝臣」)
本歌の背景が結構難しいのであります。出航を拒否して処分されるまでに四年か五年の月日が流れておりまして、流されたと思ったら二年ほどで帰還しているようですけれども、そうした時間の妙な流れはどこから来たのか。実は遣唐大使の藤原常嗣が亡くなったり、嵯峨院が崩御したりしたようでありまして、要するに政治に翻弄されたのでありましょう。それだけ小野篁が切れ者で、何かと言動が物議をかもしたということです。よってこの本歌については、解釈がどこに落ち着くのか分からないところがあります。隠岐に流される時に船に乗ったとして、どこから乗ったのかも諸説紛々でありまして、なるほどそんなものなのでありましょう。通常は隠岐を目指している歌と言うことになっていますが、なんだか流刑に腹を立てて逃亡しようとしているように読めてしまうのでありますが、それはまあ冗談であります。冗談ではありますが、小野篁が生真面目に詠んだ歌という保証はありませんから、逃亡説だって立論の余地はあるでしょう。
『百人一首』について言うと、作者の実在が不明と言うような歌人と、官人で経歴がよく知れている人が交互に出て来る感じであります。猿丸太夫や喜撰・蝉丸は学者さんが激怒するくらい経歴不明でありますし、それに対して阿倍仲麻呂やら小野篁は資料があり過ぎて面倒臭いようであります。藤原定家は平安時代末から鎌倉時代の人でありまして、そうすると最初の20人くらいは定家さんだって半信半疑で選抜していたかもしれません。
2011年や2015年当時は、雑事に追われてなかなかブログを書いている暇がなかったはずなのであります。ところが、毎日のように書いていたようでありまして、おそらくそれによってストレス解消していたのであります。ところが、2022年は来客がわずかに6回あった程度で、またどうしても行かねばならない用事はたったの1件に過ぎなかったのでありまして、それでブログを書いたかというとほとんど書いていません。どうやら、私という人間は暇すぎるとブログを書かないのであります。人間ほどほどがいいようですね。
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