金銭のトラブルとか、業者との揉め事とか、の思い出 その2
よく考えて見ると、親から人生の試練について教訓を貰ったということがないのであります。社会経験の少ない親だったのは間違いなくて、末っ子の私に言うほどのことがなかったのだろうと、今なら分かります。母親の方は、なるべく南の暖かいところに行きなさい、というのが唯一の教訓でありまして、どうしてそんなことを言うのかと考えてみたら、若い時に住んでいた場所に比べて嫁に行った先が寒かったというのが、その教訓の出どころかと思います。結婚して住んだ家で、恐らく最初の冬に目が覚めたら布団に雪が積もっていたと語ったことがありました。途方にくれたんだろうね。
母上、教えの通り故郷より少し南に住みました。
父親の方は、子供のころに放任していたのに、大学卒業を目前にして卒論を書いている時に、公務員になれとか、農協に入れとか言っていましたが、もう手遅れ、手続きには間に合わない時で、そんな希望があるなら高校時代の進路を考える時期に言わないとダメでありましょう。本人は世間のことが分かっていなかったのは間違いないのであります。世の中の大概の親はこの程度のはずでありまして、日本の近代は世間知らずの農民が九割くらいで、それが今は先進国のつもりですが、決して民度は高くないはずであります。民度が高いなら今頃教育費は無料になり、みんながインターネットをパソコンでしているはずですよね。
さて、引越しの時にこんなことがありました。
東京の郊外でアパートに住んでいる時のことですが、海外で職に就かないかという誘いがあって、一つ乗ることにしたのであります。手塚治虫が住んでいる近所で、二階にはアニメーターの家族もいたりしました。大家さんは、桑田次郎に部屋を貸していたなどと話してくれたこともあったのです。不要なものは近所の人々に買ってもらったり、譲ったり、それなりに始末し、冷蔵庫やエアコン、さらにはタンスは次の住人に合計10万円くらいで買い取ってもらったりして、随分荷物を減らしたのであります。仕事道具の類は〇〇運輸という運送屋に頼んで海外に送ることにして、それはさっさと片付けて船便にいたしました。テーブルとか本棚なんかをトレードマークが動物の引越し屋に依頼することにしまして、約束の日になったのであります。ビザの降りる当日で、それを午後の五時までに都内に取りに行く必要がありまして、さらに飛行機は翌日出発というハードスケジュールでありました。その日の夜は、羽田に一番近い世田谷の親戚が泊めてくれることになっていて、手荷物を持って夜までに世田谷に移動の予定であります。
さて、昼になっても引越しの車が来ない。連絡も付かない。
奥さんと顔を見合わせて、困ったねえ、どうしたんだろう、変だねえという話をしながら、来ない引越しの車を待ち続けました。子どもは三歳と一歳なり立てでありまして、移動をするにも時間がかかるのであります。私の父親が応援に来ていて、世田谷の親戚というのは父親のすぐ下の弟でありますが、現職の刑事さんという固い職業の方であります。つまり、父親が私に要求した公務員の実例なのです。その頃家を建て替えて、和風の旅館のような世田谷のお宅でありまして、ごちそうを用意して待っているという状況だったのであります。引越し屋が来たのは午後の三時過ぎ。私は待ちきれずに某大使館にビザを取りにアパートを後にして、荷物の積み出しは父親と妻に任せるというような、綱渡りの引越しになりました。
どうやら、ダブルブッキングで配車が上手く行かなかったよう。
その夜、世田谷の親戚の家に、引越し屋の部長みたいな人がやって来たのであります。というか、普通、引越しの時には荷物を積み込んだらお金を払うのでありますけれども、さすがに腹を立てて父も妻もお金の支払いを拒みまして、ちゃんと説明に来いと言ったらしいのであります。やって来たのは、ちゃんと背広を着た育ちのよさそうな人でありまして、見る限り慶応大学出身みたいなエリート社員でありました。結局話合いの結果、送料は無料、作業した人の賃金は払うというようなことになりまして、たぶん12万円くらいの見積もりだったのを、3万円のみ支払うというようなことになったのであります。刑事の叔父さんは交渉の様子を別室で聞いていたようですが、口を出すこともなく、何の感想も漏らさなかったのであります。
海外に送った荷物も、そう言えば、引き取るのが大変でした。
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